合縁奇縁[番外編]

このお話は「合縁奇縁」の【六、百千鳥】~、幾久が入学式に行っている間の久坂と高杉のお話になります。

東京の眼鏡君

もうとうに日は昇っているというのに、足元の土は湿ったままで、空気は水を含んでつめたい。
山を背後に抱いているせいで、木々が陰を作り、夏はそれは涼しいのだけど、まだ春では肌寒さしか感じない。
山門はゆるやかだけどけっこう長く歩き、山の中腹にある寺を目指す。
暗い門の隙間からのぞく美しい桜は、まるで別の世界へのいざないのようだ。
あの場所を目指し、何度この石畳を駆け抜けただろう。

門の少し手前で呼春は立ち止まる。後からゆっくりと昇ってくる瑞祥を見下ろすのが、好きだからだ。
彼のつむじは兄によく似ていて、一瞬彼かと見まごう程だ。

「ハル、早い。走らなくてもいいじゃん」

そう言って長い髪をかきあげる。顔のつくりは相変わらず派手だ。最近一層、それが増した気がする。

「いいだろ別に」
そう言って瑞祥を見下ろして、先を進む。
一瞬だけ、彼の兄を思い出すこの時間と空間は、呼春にとって幸福で辛い時間だ。

―――――まだ互いに悲しみは癒えていないのを知っている。

だから呼春は言わない。
お前の姿が、杉松にそっくりに見えるとか、そんな事を言われてもきっと瑞祥は複雑な表情になるのを判っているからだ。

山門から奥の道を歩き、代々の藩主の大きな墓の横を通り山の上へ登る。
山の上は一面が墓場だが、ここまで登ってくると開けた山なので陰鬱とした雰囲気はない。
むしろ、山門から寺までのほうが、雰囲気は暗い。

ここは何百年も前からある墓所で、歴史のある墓も多い。
大小さまざまの墓が並ぶ中を歩き、やがて二人はひとつの墓の前で立ち止まる。

『久坂家』と刻まれたその墓に向かい、呼春と瑞祥の二人は墓の掃除を始めた。
掃除と言ってもここは寺の敷地内になるので管理人が常に掃除をしている。
二人がすることは、ちょっと生えた草を引き抜き、どこからか舞い落ちた落ち葉を取り、枯れた花を取り替えるくらいだ。

近くの井戸から水を汲み、墓にかける。線香に火をつけ、供えた。
いつもそうしているように、商店街の花屋で花を受け取り、いきつけの和菓子屋で饅頭を買ってからここへ来ている。
綺麗な懐紙を麗子さんがくれた。
懐紙にさっき買った饅頭を備え、持ってきた茶碗を隣に置く。
マグに入れてきた温かいお茶を注いで、ポケットから数珠を取り出す。
無言で手を合わせ二人で静かに暫く拝む。
やがて拝むのを終えると、瑞祥が饅頭を取り、半分に割り、呼春に差し出す。
一口でそれを食べ、まだ温かいお茶を飲む。
瑞祥もまた残りの饅頭を食べてお茶を飲んだ。
拝んだ後、こうして一緒に供え物を食べるのは供養だと、昔瑞祥の祖父に聞いた。
だから時々、こうして墓参りをした時は二人で一緒に供養をする。
線香の香りの中、瑞祥が言う。
「いっくん、大丈夫かな」
今日は御門の後輩の幾久の入学式だ。
「大丈夫じゃろ。栄人がついちょお」
報国院の入学式はなかなか変わっているから、きっと退屈はしないはずだ。
今日は式が終われば弁当をもらえるし、することはない。
「ぼちぼち幾久の部屋をどねえかせんと。いつまでも雑魚寝ってわけにはいかんだろ」
「部屋はともかく、寝室ね。栄人と一緒でいいんじゃないの?どうせ栄人、今は一人で寝てるだろ?」
栄人の部屋は三年の山縣と一緒だが、山縣が夜中まで起きているので寝るときだけは別になっている。
「そうじゃの。幾久も栄人に懐いちょおみたいじゃし、そのほうが」
「寂しい?」
「なにが」
「いっくんに懐かれたいんでしょ、ハル」
「……」
むっとしていると瑞祥が笑う。
「まあわかるけどね。素直で可愛いし」
「一年は入ってこんって聞いてたしの。そりゃ、突然来た後輩は可愛いかろうが」
お前だって、と呼春に言われ、瑞祥もまあね、と答える。

可愛くはあるけれど、自分たちだけの空間に誰かが入ってくるのは、瑞祥は真っ平だった。
実際、威嚇してやろうと思っていたし、呼春には内緒だがひっそり自分をホモだと思わせるようにも仕向けている。
夜中に呼春の呼吸を確かめている時に見つかるとは思わなかったが、とっさに呼春を起こさまいと『静かに』としたつもりが、誤解を生む行動だったと気付いて丁度いいから利用してやれと思った。
案の定、瑞祥をホモだと信じて脅えてびびっていたが。
(脅しすぎちゃったかな)
どうせそのうちバラさなければいけないんだけど、あの素直さがおかしくなる。
あんまりやると呼春が怒るので、さて、いつバラすかなあと瑞祥は考える。
「辞めるつもりなんでしょ、いっくん」
「まだ判らん。ひょっとしたら、おるかもわからんしの」
別に辞めてもかまわない。そうすればまた自分たちだけの、なじんだ寮に戻るだけだ。
呼春はそうは思っていないようだ。
「ハルは、いっくんに居て欲しいんだ」
「欲しいな。寂しいし、やっぱり一年は可愛いし」
でもそれだけじゃないのを瑞祥は判っている。

呼春がやたら幾久を可愛がるのは、幾久が「東京から来た」からだ。
おまけに受験の折にごたごたしたところなんか、まさに杉松(すぎまつ)そのものだ。

久坂杉松(くさかすぎまつ)
年の離れた、瑞祥の兄。
いまはすでに鬼籍に入ってしまっているが、彼がまさに幾久の通りの人生だった。
東京で生まれ、育ち、やがて受験の年にいろいろあってこの場所へ逃げてきた。
そして報国院に進学して、友人を作り、自分の将来を決め、やっと希望が見えた頃、絶望に叩き落された。

「東京の眼鏡君」は杉松が引っ越してきた頃についていたあだ名だ。
目が悪い杉松はいつも眼鏡をかけていた。
それが子供の頃の瑞祥には格好良く見えていた。
頭がいいお兄ちゃんだと自慢だった。
高杉も懐いた。
三人で兄弟みたいなものだった。

大好きだった。
尊敬していた。
―――――だけどもう居ない。

兄と祖父とを立て続けに亡くして、瑞祥は身内の姿を初めて知った。血縁の汚さも。
そしてそれに振り回された瑞祥を救ったのが呼春だった。

「思った以上に、素直だからかな。僕もいっくんは嫌いじゃないよ」
「それならええが。お前がどう思うかが、一番心配じゃったからの」
「僕がいっくんを嫌ったら、どうするつもりだったのさ?」
「知れたこと。追い出すじゃろ」

お前がな、と呼春が言う。

そうだ。瑞祥は他人が大嫌いだ。だから寮に、これ以上誰かが入るのは我慢ならなかった。
それなのに、瑞祥を一番よく知っているはずの呼春が一年生を入れると決断したときは、何を考えているんだと怒りもしたけれど。

(よりにもよって、のいっくんか)
まるで兄のような境遇に、呼春はなにか感じるものがあったに違いない。
瑞祥だってそう思った。
だから許した。少しだけ。ちょっとだけなら我慢してやろうと思った。

「追い出さなくても、出て行くかもしれないよ」
瑞祥は言う。もし兄のような境遇なら、きっと今はここが嫌いで仕方がないに違いない。
「出ていかんかもしれん」

杉松のように?
そう瑞祥は聞けなかった。

「いずれ幾久が決めることじゃ。外野はなんもできんしな」
待ちゃええ。そう呼春は笑う。

呼春は幾久にあれこれ気を揉んでいる。
三ヶ月の間にどこに連れて行こうか、なにをして遊ぼうか、どうしたら楽しんでくれるか、そんな事をずっと考えている事を瑞祥は知っている。
よけいなお世話ばかりだ。こいつはいつも。それで最後に傷ついたことも、一度や二度じゃないくせに。

何度も呼春を傷つけた事がある瑞祥はそう思うが、それを辞めないのが呼春だというのも判っている。

こんな所で、瑞祥は呼春との差を感じてしまう。
何気ない呼春の言葉はまるで杭だ。
無遠慮に胸を穿つこともあれば、いつのまにか厳しい崖に突き刺して、落ちそうな瑞祥の命綱にもなった。
多分、ここに逃げてきた杉松を救ったのも自分じゃなく呼春だ。多分呼春はそれに気付いていないだろうけど。


兄の杉松をなくして数年、二人を取り巻く世界はあまりにも目まぐるしく変わった。
人の嫌な部分を見て、絶望して逃げ出して、離れてまたこうして傍に要る。

呼春だけは失いたくない。いつも思う。

血も繋がらないのに馬鹿げていると、きっと自分以外なら言うだろう。
だけどもう家族もない、残っている血縁は瑞祥をないものとして扱っている。
瑞祥の家族はもう呼春しか居ない。この悲しみが判るのも。

いつもいつも救われるのだ。
一人だけ悲しいわけではないことに。
それはきっと酷い救いなのだけど。

喜びは誰とでも共有できるけれど、悲しみは信頼できる人としか共有できない。
そんな言葉の意味を嫌と言うほど味わった。

この世界で大切な兄を失った瑞祥の気持ちが判る人なんか居ない。
だけど瑞祥の傷と同じくらい、深く呼春も傷ついている。
互いの傷が癒えてない事は判っている。
なぜなら自分がそうだからだ。

どんな痛みも自分たちは平気だ。
杉松を失ったとき以上の悲しみなんかもうどこにもありはしない。
少なくとも瑞祥自身には。

だから、思う。
どうか呼春だけはずっと生きていますように、と。


まだ十代なのに、大げさ。気にしすぎ。
そう誰かに笑われた。だけど瑞祥は知っている。
悲しみも死も、若いからなんて理由で見逃してはくれないことを。
兄の杉松にそうだったように。


「……すぐに決めるよ、きっと」
「そうじゃな」

兄の杉松がそうだったように、きっと彼も決めるだろう。
戻るのか、戻らないのか。

自分達はどちらでも構わない。
でもただ、もし、彼が杉松のようになにか抱えているものがあるなら、それを捨てることは出来なくても、少し荷物を下ろせたらいいのに、と思う。


「帰るか。土産にシュークリーム買ってやろう」
そう言って呼春が歩き出す。帰りは下り坂ばかりなので楽なものだ。
商店街には呼春と瑞祥のお気に入りの洋菓子店が、寮に帰る途中にある。
ケーキはそこそこだが、シュークリームは二人のお気に入りだ。
ちいさくて中はこってりとしたカスタードが詰まっていて、洋菓子というより手作り、という雰囲気が強いからだ。

「いいね。一人ふたつずつ?」
「三つはいるじゃろ」

自分たちを基準に考えて、瑞祥と呼春はシュークリームの数を計算する。
今、寮には五人居る。寮母の麗子さんのことを考えて十八個はいるだろう。
「数が面倒だな。二十個買おうか、二十個」
瑞祥の言葉に呼春が「だな」と答える。
「次は饅頭じゃなくて、シュークリーム供えようか」
瑞祥の言葉に呼春が笑って言った。
「そんなの、『おまえらが食べたいだけじゃろうが!わしゃ饅頭がええ!』って爺さん怒るぞ」
「だね」
ぷっと吹き出して歩き出し、墓を後にした。
下る前に顔を上げると、山の中腹から海が見える。
遠くに見える二つの島は、昔話に語られる神話の島だ。天気がいいのでよく見える。

あの島も実は、報国院の敷地にある神社の境内になるのだという。
いつか三人で見た景色はいまはもう二人でしか見ることがない。

せめてもう、失うことがありませんように。
遠くに見える島に祈る。
天が遠くて届かなくても、あの島くらいなら聞こえるだろう。このささやかな願いくらい。

「帰るぞ、瑞祥」
待ってよ、呼春。そう言いながら後を追う。

右耳にあるピアスに触れた。大丈夫、大事なものはここにある。そしてこの目の前にも。

山門を降りる前に桜が散った。一瞬、雪の日と間違えたが、温かい空気に春だと気付く。
歩き出す呼春の横に並ぶ。一緒に歩く。


今日も君が生きている。
杉松のようにこの姿が、消えてなくなりませんように。どうかこの世界が明日も、君を生かしますように。

そう瑞祥は願いながら、右のピアスから手を離した。



[東京の眼鏡君]終わり