合縁奇縁

(2)余寒

本州の端っこからタクシーと飛行機あわせて約三時間で幾久は東京、羽田へ戻る事が出来た。空港へ到着したのは夜の八時過ぎで、ざわつく人の波にほっとしてしまうのはこっちに慣れているせいかもしれない。
「幾久!」
搭乗口を下りると父が待っていた。
「父さん、ただいま」
「良かった。ちゃんと一人で戻って来れたな」
「子供じゃあるまいし。大丈夫だよ」
正直、一人で行くには不安も抵抗もあったがなんとかなるものだ。空港からタクシーしか使っていないのも大きかった。
「これなら帰省も一人で大丈夫だな」
次は新幹線を使ってみるか、と言う父にそれもいいね、と答える。
「どうだ、蕎麦でも食べて帰るか?」
「食べる!もうすごいお腹すいた!」
父の誘いは嬉しかったが、やはり母はまだ機嫌が悪いのか、と察した。
空港の店の蕎麦屋に入り、父と定食を頼んだ。
最近こうして外食をする事が多いのは、母が食事をあまり作らなくなったせいだ。
「学校はどうだった。試験、難しかったか」
父の問いに幾久は頷く。
「けっこう難しかったけど、そこそこやれたと思う。あ、あと合格はしたみたい」
「ほぉ。早いな」
「名前書いたら合格はするって。大丈夫なの、あの学校」
幾久の言葉に父は笑う。
「ああ、そりゃ千鳥しかないから大丈夫だ。千鳥は名前さえ書けりゃ合格するっていうレベルだからな」
母さんには黙っとけよ、と父は言う。そりゃそうだ。
学校のレベルをなにより気にする母がこんな事を聞いたらまたヒステリーを起こしかねない。
「でもそんな学校で、本当にこっちの大学に受かるレベルの勉強できるの?」
「問題ない。ちゃんと能力別にクラスが分かれてるからな。そりゃー、驚くほどシビアだぞ、あの学校は」
「ふうん」
言葉で言われてもよく理解できない。
確か、あの高杉と言う人も同じ事を言っていた気がするけど。
「お前の成績なら、良くて鷹、まあ鳩にはいけるだろうから心配はしてないが、出来るだけ上のクラスを目指してくれ」
「そのつもり。でもめずらしいね、父さんが成績の事を言うなんて」
絵に描いたような教育ママの母とは違い、父は今まで成績の事に口出しした事は無かったのに。
「成績がどうのはいいんだけどな。授業料の問題があるんだ」
「授業料?」
私立だから高い、と言いたいのだろうか。
でも今まで幾久が通ってきたのはずっと私立だったし、むしろ高校も私立でないと駄目、と言ったのは父のはずだったが。
「クラスによって支払う授業料が全く違う」
「へえ、そんなことあるの」
「ああ。最近はどうだか知らないが、父さんの頃は一番優秀な『鳳』は授業料、寮費、全部無料だったな」
「マジで」
ということはクラス全員が奨学生みたいなものか。
「長州藩の気風でな。能力のある子は身分問わず、全部藩で面倒を見てやっていたんだ。その名残があの学校にも残っていて、能力のある子は学校が全てサポートしてくれる。そうじゃない、学校ブランドが欲しいだけの子は、つまり金を払って来いと」
「ほんっと、シビアだね……」
塾みたい、と幾久は呆れる。
有名な塾の場合、成績優秀な生徒に来てもらってレベルの高い学校を受験させて、授業料は無料にされる子とかいたけど、それと同じような事をやる学校が私立とはいえあるとは思わなかった。
「どこでも似たようなことはやってるけど、あの学校はそれが一層露骨なだけだな」
でもその分、自由度も高いぞ、と父は言う。
「自由、ねぇ」
高杉とかいう人も自由だとか言っていたけれど、今までそんな制約のない学校に居た幾久から見れば自由自由と言われても、逆になにが自由じゃないのかが判らない。
制服を着て、決まった時間に決まった授業を受けて、それなりに持ち物に気をつけて。
そんなものが自由になったからといって、この毎日が楽しくなるとは思えない。
(別に、楽しくなくったっていいんだけど)
楽しかろうがなかろうが、とにかく問題なく過ぎればそれでいい。普通であるというのはそういうことだ。
「フツーに過ごせるなら別にどこだっていいよ」
そう答えた幾久に、父は苦笑いだ。無理もない、と幾久は思う。
つい先日まで、こうして父と話すことすらまともになかったのだ。多分、幾久が問題さえ起こさなければもっと話すこともなかっただろう。
ずっと問題なんか起こしたことの無かった幾久が、親を呼ばれて退学寸前にまでなった。原因は、クラスメイトの揶揄だった。
「なんか、もう子孫とか、そういうの、すごいめんどくさい」
幾久の名は、乃木幾久。
明治時代に名を馳せた、乃木希典という将軍の子孫だ。明治に入る前の幕末では、高杉晋作とともに戦った事もあるという。
歴史好きには知られている人だったが、実際に歴史に興味のない人からすれば「いたっけ、そんな人?」程度の扱いだし、尊敬する歴史上の人物とかに上がることもない。
ぶっちゃけ歴史好きでもなければマイナーな人物の扱いで、幾久自身もそれを気にした事も言ったこともなかった。だが、昨年から放送されたあるドラマのせいで、幾久の状況が一変した。
国民的支持を集める歴史小説家が書いた、ある小説がドラマ化された。
そこまでは別に良かった。
乃木希典の生涯を描いたその作品は、結局のところ、『いかに乃木希典が無能であったか』という内容で描かれていた。
別にそれも幾久はなんとも思わなかった。
知りもしない先祖のことなんて、他人と同じだったし、家でなにかを語られたこともない。
ドラマを見てもふーん、で終わりだったし興味もなかった。
それなのに、担任が幾久が乃木希典の子孫であることを話題に出し、その後からクラスメイトの執拗な揶揄が始まった。
最初は無視していればいいと思っていたが、毎日くだらない揶揄がしつこく繰り返され、テレビ局から金を貰ってるんだろう、とか、贔屓されていいなあ、とか、無能な先祖が殺した相手に申し訳ないとか思わないのか、人殺しの子孫が、などとさんざん言われて。
いや、それでも幾久は堪えようと思ったのだ。
それはただ、そんな馬鹿げたことを言うクラスメイトの相手をするのが面倒だったからだ。
だけどふと。
中等部から、そのまま高等部に上がれば、クラスメイトの顔ぶれなんか殆ど変わらない。
下手したら大学だってそのままかもしれない。
進路を変えても、結局どこかでこういった事はばれるだろうし、ということは最低でも三年、大学まであわせたらもっとずっとこういった事が続くのか、そう思うとたまらなくうんざりした。
卒業も間近に控えた登校日、またからかわれて、ああ、もうなんかいいや、そんな風にふっと色々嫌になって、幾久は思い切り、そいつをぶん殴った。
人を殴ったことなんかなかったのに、見事に頬に一発入れ、その瞬間反省どころか、どうせならもう一発と殴ってしまって、結局親の呼び出しを食らった。
今まで幾久が問題をおこしたこともなく、相手にも殴られるだけの非があったし、元はと言えば担任がばらしたせいもある。
卒業も近いことだし両成敗で、と卒業前日まで停学という扱いにされたが、春休みなので当然なんのダメージも無い。卒業式当日は式だけ終えてさっさと帰ればなにもなかった。
高等部に上がっても多分殴った相手とはクラスを分けてくれるだろうし、三年間関わらないようにしてくれたかもしれない。
だけど幾久は、もう今までの学校に通う気がなくなっていた。この時期に別の学校を選ぶ余裕も無かった。
大抵の学校は募集がすでに終わっていたが、父の薦めた母校だけは二次募集が遅くまでかけられているので選んだようなものだ。それでもかなりぎりぎりだったので、父が母校に連絡を取って、無理に試験を受けさせてもらったのだ。
その学校は東京から遠く離れていたが、全寮制だったので遠くても問題はないし、正直、ヒステリーを起こした母親と一緒に居るのもうんざりだったので、幾久には丁度よかった。
それに、今までかかわりの無かった父が、熱心に薦めてくるというのも興味が湧いた。官僚として忙しく、滅多に話すこともなかったのに、問題を起こしても幾久を叱りもせず、じゃあ、他の学校はどうだ、なんて言われて拍子抜けしたほどだ。自分の父親ながら、よく判らない人だな、と幾久は思っている。
蕎麦湯を啜りながら、父が幾久に言った。
「あの学校には、お前の境遇と同じような奴が沢山居るから、そういう意味では過ごしやすいかもしれんな」
父の言葉に幾久は顔を上げる。
「どういう意味?」
「そのままだ。お前みたいに、志士の子孫があの学校には沢山通ってる」
「そう、なの」
それは知らなかったし、意外な情報だった。
「うちよりよっぽどメジャーな子孫が沢山居るから、そういう意味では心配しなくていいぞ」
「フーン」
そういや、幾久がけっとばした上にビスコをくれた人も、高杉、と言っていた。
(あの高杉晋作の子孫とか。まさかね)
ぷっと幾久は笑う。もしそうなら、おかしすぎる。
オレンジのジャージを着たお洒落な高杉晋作とか、なんか違いすぎるんじゃないのかな。
といっても幾久は高杉晋作をよく知らなかったが。
「なにかおかしかったか?」
「や、今日さ、髙杉って先輩に会ったんだ。すげ派手でカッコイイジャージ着てたから、なんか高杉晋作の子孫だったらおかしーなって」
「そりゃ面白いな。でも確かにイメージは合うかもなあ」
父は楽しそうに言う。
「合うの?」
あんな派手なのが?と幾久が言うと、父は笑う。
「高杉晋作は派手好きでお洒落な人だったらしいぞ。当時では珍しいものも好んで持っていたし。高杉がかっこいいから、とその真似をした志士もいたそうだぞ」
「へぇー、そんな人なんだ……」
なんだか意外だ。知らなかった。
「本当に子孫だったら、笑う」
「よくある苗字だからな。そうなら面白いな」
そうだね、と笑い、幾久も蕎麦湯を啜った。
幾久から貰った封筒の資料を見ながら、父は幾久に告げた。
「本当なら仮入学があるんだが、遠方の生徒は別に来なくていいらしい。幾久、一応行くか?」
「えー……また行くの?行かなくていいなら別にいいよ。めんどくさい」
わざわざあんな遠いところにまた行くとか、面倒極まりない。
「どうせ入学しなきゃいけないんだし、そうなったら今日とあわせて三回も行くとかもったいないよ」
「そうか。じゃあ、こっちで必要なものを揃えればいいだけだな」
試験の後に貰った封筒の書類には、入学の手続きなどが書いてあった。
教科書やその他のものは学校が準備し、遠方の生徒の分は制服も全部、寮に届けてくれるのだそうだ。
上履きなどのサイズが必要なものも、頼めば用意してくれるが、自分で購入してもいいらしい。
「入学式は、父さんが行くからな」
「来るの?」
「ああ。母校だしな」
「えー……なんか恥ずかしい」
普通入学式と言えば母親だろう。だが父は言った。
「心配するな。あの学校に来るのは殆どが父親だ」
「え?マジで?」
「卒業生が自分の息子を入れることが多いからな。入学式後、同窓会を兼ねての祝賀会もある」
「マジ、かわってんね……」
でも確かに、伝統ある男子校ならそれもありなのかな、と幾久は思う。
「じゃ、オレは父さんと一緒に行けばいいの?」
「いや、お前は入学式前に寮に入らなきゃならんから、先に行かないといけないな」
ほら、と渡されたプリントには、入学式の日付があったが。
「入学式って、日曜日?」
「そのほうが親が出やすいだろ?」
「そうだけど」
生徒の都合は無視なのか。
入学式だから別にいいのか。
本当になんだかこの学校は調子が狂う。
「入寮式が入学式の二日前だな。金曜日の昼からか。これならこっちを朝の飛行機で間に合うだろう」
「それなら面倒がなくていいね」
入寮式は服装自由、それまでに各自の荷物をそれぞれの寮に送っておくこと、ただし二次試験の生徒については一旦学校に送付、とある。
「試験がギリギリだからどの寮に入るか決まってないんだろうな」
父の言葉に幾久が驚く。
「どの寮って、寮ってひとつじゃないの?」
父に以前見せられたパンフレットに載っていたのは、大きなよくある普通の寮だった。
綺麗だったし、設備も整っていたからそこだと思い込んでいたのに。
「いくつかあるな。パンフレットにあったのは一番大きな報国寮で、他にも小さい寮がある」
「ふーん……」
小さい寮、ということはなんか汚かったりぼろかったりするのかな、と不安になるが、私立だしそこまで酷くはないだろう。
「いい寮なら、いいんだけど」
「そうだな、いい先輩が居てくれたらいいな」
幾久はあくまでハード面の事を言ったのだが、父はソフト面を気にしていると思ったらしい。
そんなの誰だって同じだよ、適当にあわせてやるもん、と思ったが、父が悲しむといけないので黙っておく事にした。


不機嫌な母の攻撃から逃れつつ、幾久は引越しの準備をした。といっても送るのは服、本、くらいで他に必要なものは特にない。
ゲームも持ち込みは禁止ではなかったので、こういったものは送らずに自分で持って行くことにした。必要なものは父にメールすれば後から寮に送ってくれるというし、母に内緒で小遣いも仕送りしてくれるというからそっちのほうが楽しみだ。
知らない場所に住んで、知らない学校に通うのは不安もあったが、わくわくする気持ちの方が大きい。
春休みは誰からの誘いもなかった。
問題を起こした幾久とは関わるつもりがないのだろう。
三年間同じクラスであってもこんなもんだろ、と幾久は苦笑する。たまに遊びに行ったり、塾で一緒に過ごしても結局は上っ面の付き合いだけだ。
それを幾久は責める気にはなれなかった。
友人がそうなっても、自分も、きっとあえて関わろうとはしないだろうと思ったからだ。
(……メアド、変えようかな)
本当は春休みに誰かからメールが来るかも、と思っていた。
だけどこうも見事なまでにスルーされていると、別に替えてもいいよな、と思う。
そう考えていると父が高校祝いに携帯を新しく買ってくれることになった。
新規契約にしたいんだけど、という幾久に、父は何も言わなかった。



二次試験を受けた二週間後、入寮式のある金曜日になった。
幾久は朝、家を出たが母親は寝たままだった。
母の選んだエスカレーター式の学校を蹴って父の母校に行くのがまだ許せないのだろう。
(仕方がないか)
父が笑顔で空港まで送ってくれたので、ちょっと嬉しかったし、一人で搭乗口に向かう時は、ぐっときた。
二週間前に乗ったばかりの飛行機に乗り、小さな空港に到着すると、先々週と同じようにタクシーで学校まで向かった。

東京から、本州端の港町、長州市。
幾久の高校生活は、今日から始まった。



タクシーで校門前、という名の神社の前に到着すると、新入生らしき人が沢山居たので幾久は迷うことなく学校へ向かうことが出来た。
試験のときは訳が判らず迷ってしまったが、神社の境内から入り、学校へ向かうと迷うほうがおかしいというくらいに判りやすい。
多分、試験のときは時間がぎりぎりになったせいもあってテンパってしまったのだろう。
地元の子が多いのか、誰もが友人と来ているようだ。
いいなあ、とそんな人を横目で見ながら、でもまあ、一人は気楽でいいか、とも思った。
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そう書かれた看板に従い、上履きに履き替えて幾久は校舎内に入っていく。ぞろぞろと全員が向かったのは、学校内にある学生食堂だった。かなりの広さがあり、新入生が全員入っても余裕なほど広い。
改装されたばかりなのか、新しく綺麗でお洒落なカフェといってもいいくらいだ。
入り口の名簿でチェックを済ませると、どのテーブルに着くかのカードを渡される。
幾久が渡されたテーブルは奥にある場所だった。
六人がけのテーブルに『御門(みかど)寮』と書かれたカードが立ててある。
他の寮はテーブルがいくつも用意されている感じなのに、幾久の寮はこのテーブルひとつだけのようだ。
(六人くらいしか、いないってことかな)
少なくとも六人以下、という事だろう。
できれば一番大きな、パンフレットに載っていた報国寮が良かったがそれは叶わなかったようだ。
ちょっと残念だな、と思いながらも食堂が綺麗だし、ま、悪くもないか、と幾久は思う。生徒が受付を終えて、全員が席に着き、入寮式の時間まであと五分程度、になったとき、隣のテーブルから話しかけられた。
「なぁ、御門寮ってマジ?」
同じ一年生だろうが、隣のテーブルの席だ。
寮の名前は『恭王(きょうおう)寮』とあった。
「たぶん……」
渡されたカードには、幾久の名前と寮名がある。
「マジだと思うけど」
そう返すと話しかけてきた恭王寮の子はいぶかしげに幾久に尋ねた。
「なんか問題でもおこした事ある?」
「は?」
突然の事に幾久が驚いていると、さらに続けて言った。
「だってさ、御門寮って問題児ばっかって有名じゃん」
知らない。そんな話聞いた事もない。
「そ、うなの?」
尋ねるとその子は頷く。
「寮生の数も物凄く少ないし、学校から一番遠いし隔離されてるし。有名だよ。知らなかったの?」
問題起こすタイプに見えないけどな。
そう言われて、幾久は頭が真っ白になった。幾久が起こした問題とは、やはり中学で人を殴った事だろう。
ということはこの学校で最初から厄介者扱いにされているということだろうか。
「おい、顔色悪いぞ」
恭王寮の子は余計な事を言った、と謝ったが、幾久は力なく首を横に振るしかできない。
多分、その子の言う通りなのだ。
自分はやはり問題児扱いで、ここでも居場所はそのポジションしかないのだ。
どうしてこんな遠くの学校を選んだのだろう。
同じ問題児ポジションに追いやられるなら、元々居た学校の方が楽だったのかもしれないのに。
がたがたと椅子を正す音が響く。
幾久以外、誰も『御門寮』のテーブルにつくものはない。つまりは一人、ということだ。
入寮式が始まり、先生がマイクを持ち、挨拶を始めたが、幾久の耳にはろくに届いていなかった。


入寮式はすぐに終わった。
きちんとした式ではなく、あくまでも新入生への寮への手引きや注意事項だけで、詳しくは寮へ行って聞け、という事だった。
それぞれが寮への地図を貰い、移動を始めたが幾久は地図を貰っても、そこがどこだか全く判らない。
(本当だ、遠い……)
寮全部の場所がその地図には書いてあるが、幾久の入る御門寮だけがやけに遠い。
誰か他に居ればいいのに、幾久がそう願っても結局最後まで誰も『御門寮』のテーブルには来なかった。
まさかたった一人だけとも思わず、しかも問題児の入る寮とも知らず、この町がほとんど初めてだというのにここまで移動しろというのか、と思うと不安で泣けてくる。どうしようと考えて座ったままでいると、テーブルに誰かが近づいてきた。
明るくブリーチした栗色の髪、ネックウォーマーをしていて目がぱっちりと大きい。
人好き、というか女の子に人気が出そうなタイプの人だ。
幾久に近づいて、にこにこと笑顔で尋ねてきた。
「乃木幾久君、だよね?」
小首をかしげて尋ねられ、幾久は思わず頷いていた。
「そっかー、幾久なら、いっくんだね」
「は?」
「じゃ、行こうかいっくん。寮までごあんなーい」
そう言うと幾久のリュックをひょい、と軽く持ち上げる。
勝手にぐんぐん進んでいく人に、幾久は慌てて着いていった。

校舎を出て、靴を履きかえる。
上履きをリュックに突っ込むと、さっきの人が靴を履き替えて待っていた。
身長は幾久より十センチくらい高く、細い雰囲気なのに体はがっしりしている。運動部なのかもしれない。
格好は私服だろう、パーカーの下は薄いニット、ジーンズの裾をまくりあげ、黒いサンダルを履いている。
さっき首にしていたネックウォーマーを頭に移動させ、ヘアバンドにして額を出していた。なんというか、チャラい雰囲気の人だ。
幾久の事を知っているということは、他の寮のようにこの人が世話役の先輩なのだろうか。
「あの、」
意を決して話しかけた幾久に、先輩らしき人が言った。
「あ、自己紹介まだだった。わりわり。おれ、吉田栄人(よしだえいと)。えいとって呼んでね。御門寮の二年生!よろしく!」
手を差し伸べてきた栄人に幾久も手を伸ばすと、ぎゅっと握られぶんぶんと振られる。
「乃木幾久です。よろしくお願いします」
ぺこ、と頭を下げると栄人は、よろしくねーと楽しそうに返事をする。
「じゃ、とっとと行こうか。ちんたら歩いたら二十分くらいかかんのよ。頑張ってね!」
そんなに歩かないといけないのか、面倒くさい。そう思ったが仕方がない。
「うわーガッカリしてるね。ま、慣れちゃえばたいしたことないって」
「はぁ」
そりゃ慣れればなんだってたいしたことないと思うけど。
「道はねー、ちょっと曲がるけど基本一本だから!覚えやすいから!」
そりゃ道なんか基本一本だろ、と思ったが突っ込むのも面倒くさい。
「テンション低いなーいっくん。なに?なんかやなことでもあった?」
「……問題児ばっかって、マジですか」
「へ?」
栄人がきょとん、と幾久を見た。
「さっき聞いたんですけど。御門寮って問題児ばっかって」
やはり自分のように問題を起こした人ばかりなのだろうか。
そう不安になる幾久に栄人は噴出した。
「もーなにそんなガセ信じてんだよー。ないない。そんなのないって、うちは超優良児しかいないから。健康じゃないのは居るけど」
「そう、なんですか」
「そーだよぉ。なんだ、そんなガセまだ生きてんだー逆におもろー」
懐かしい芸人の真似をしながら栄人が言うので、幾久はほっとした。
「そっか。ガセなんだ」
「まー、たまに問題おこすけど、問題児じゃないよ。あ、おれは起こさないほうの人だから」
え。
幾久は耳を疑った。
「問題起こすって……」
「大丈夫。うちの学校、犯罪は即退学だから」
「や、そうじゃなくって、問題起こす人居るんですか?」
「なに言ってんの。そりゃ誰でもたまには問題位、起こすっしょ。だからって別に問題児じゃない訳だし」
「問題起こす人を、問題児って言うんじゃないんすか、普通」
あああああ、やっぱりだ。やっぱり問題児なんだ。
希望を持った自分が馬鹿だった。解釈がずれているだけできっとこの人も問題児なんだ。
「だからおれは、起こさないほうの人だかんね。誤解しないでよっ」
「してませんよ」
してない。多分、なんかいろいろきっと問題なんだ。
ああ、どうしよう。
今更入学も入寮もなかったことに、とかできないよなあ。肩を落とす幾久に、栄人はぽんっと軽く肩を叩いて言った。
「見つからなければ大丈夫」
なにがだ。そう言いたかったが、今更引き返すことが出来るはずもなく、幾久は不安を抱えてとぼとぼと栄人の後をついて歩いた。


学校から寮までの道は二十分足らずと聞いた。
だが絶対にこれは二十分以上経っているだろうと疑う余地もなかった。
「いっくん、ばてたー?」
「ばてますよそりゃ……」
なんだこのアホみたいな場所は。
急激な坂を上ったかと思うと、ひたすら住宅地を歩いている。そして今度は急な下り坂だ。こんな場所、毎日歩けとか、冗談じゃない!ガチで杖が欲しい。
「なんですかこれ。山登りでもあるまいし」
呆れて疲れて文句を言うと、栄人が言う。
「山だよ」
「は?」
「ここ、山だから。さっきのとこが頂上で、いま下ってんの」
「は……ははは……」
「いまは下りだから、ちょっと楽でしょ」
「しんどいです」
あまりにも急な下り坂は逆に体に負担がかかると初めて知った。
もういやだこの学校もこの寮も。
(絶対に転校だ!父さんが駄目だって言っても、奨学金貰ってでもやってやる!)
名前書くだけで合格とか、毎日山登りで学校に通うとか、問題児が入る寮とか、なにもかもが嫌過ぎる。
いっそ高校浪人でも良かったと思い直しているくらいに幾久は今の状況を後悔していた。
だらだらと汗が流れる。
しんどすぎて眩暈がしそうだ。
ふと、疲れて一瞬屈む。
「休む?」
「……ちょっとだけ」
はあ、と息を吐く。
いくら嫌でもこの場所から逃げるわけにはいかないし。そう考えながら顔を上げた瞬間、幾久の目に青い色が飛び込んできた。
「―――――海、」
思いがけない光景に、驚いて目を見開いた。
「あー、そうそう、こっから見えるんだよね」
見た事がないほどの鮮やかな青だ。
山の合間から見える、青い海と、数々の船。
「ちょっと歩いたらすぐに海があるよ」
そうだった。ここは港町なんだった。
「すっげえ、真っ青だ」
絵の具のような緑色の山の合間から、深い青が覗いている。小さな家々の屋根も見える。子供の頃に行った海水浴場の色とは全然違う、絵のような風景だ。
疲れがふっとんで、ちょっとした感動を覚えた。
「遊泳禁止で泳げないし、最近は貝も掘れないけど」
「貝って居るんですか?」
驚いて幾久が尋ねると、栄人は「いるよー」と言う。
「このあたりの貝は食えないけどね。ま、おれは食う派だけど」
「……」
いや、深くは尋ねまい、と幾久は思う。
「潮干狩りしたいなら一緒にいこっか。ちゃんと取れる所があるよ」
「オレ、潮干狩りってしたことないです」
どういうものかは知っていても、実際はしたことがない。母がそういうのが嫌いだったせいだ。
「えーマジで?じゃさ、今度潮干狩りいこっか!」
「早速遊びに行く計画っすか」
まだ入学もしていなければ寮にもたどり着いてないのに。だが栄人は言った。
「潮干狩りは遊びじゃねえ。立派な狩りだ」
なぜか急に気合を入れて言う栄人に幾久はソウデスカ、と片言のような返事をした。


山を下るとゆるやかな坂道が見えた。
道路沿いの左手には小さな川があり、綺麗な水が流れていた。
坂道を下っていく途中に門があった。
(ほんっと、ところどころ時代劇)
学校も神社内にあったし、町並みも城下町の風情を残しているせいだろう。雰囲気はとてもいい。冷たい空気に疲れた足が軽くなるような気がした。
暫く歩くと長い長い土塀が続く。
まるでお城の塀みたいだ、と思いながら歩いていると、栄人が足を止めた。
「はい、とーちゃーく!」
塀の途切れた先にあったのは、まるでお城の前みたいな、大きな黒い門戸だった。
「えーと……すみません、どこに到着したんですか?」
「ん?寮だよ?」
どこがだよ。
思わず声に出そうになったほど、そこは寮、という雰囲気ではなかった。
どう見てもお城の門に、お城の壁だ。
ぽかんとする幾久にかまわず、栄人は閉じられた大きな門ではなく、門の脇にある小さな扉を押した。
栄人について中へ入って、幾久は目を見開いた。
「す、っげ」
やっぱり寮、じゃない。料亭、むしろ高級旅館じゃないのか、というような立派な庭だ。
上等そうな石が並べられ、小さな川のようにうねった道筋を作っている。
庭は見事で、そこかしこの木もきちんと手入れされている。
「じゃ、さっきの、長い塀って、全部ここ?!」
たっぷり5分は歩くほど、塀は続いていたはずだ。
とするとかなり広い敷地があるということだ。
「そうそう、広さだけはあるんだよねーうち」
だけは、っていうが半端ない。
幾久はぐるりと庭を見渡す。
庭には大きな池があり、そこには橋が架かっている。
池の途中の小島を越えて、もうひとつ橋を渡ると池の向こう岸だ。
一目で庭が見渡せない。
塀の中はまるで別世界だ。
門から石畳の通路を通り、一軒の大きな和風の家の前に到着した。家、というより旅館のようだ。
玄関前には【御門寮】という木の看板がかかっている。名前だけは寮には違いないようだけど。
「ただいまー!いっくんつれてきたよー」
言いながら栄人が玄関をがらりと開ける。
「そこに靴脱いで。あ、靴箱あるけど、履かない靴はそん中ね」
「あ、ハイ」
「それとそれ、お客さん用のスリッパ。暫く使っていいけど、スリッパいるなら自分で用意ね。なんでもいいから」
おれはあるやつテキトーに使うけど、と栄人は笑って言う。
廊下を上がり、ある部屋の前で襖を開けた。
「たっだいまー!いっくん登場―!」
ぽんっと背中を押されて入ると、そこは畳の座敷で、座卓を囲んで数人の先輩が居た。のだが。
「えらい時間かかったの。寄り道しちょったんか?」
聞き覚えのある言葉と声。
そして見覚えのある明るいオレンジ色の派手なジャージ。
幾久は、ばっと顔を上げた。