夏虫疑氷
(5)夏虫疑氷
やっと前期の期末考査の結果が出る日になった。
テスト自体は授業の時に戻ってきてはいたが、それでも全体としての結果がでるのは今日の放課後だ。
以前は興味もなかった幾久だが、今回は話が全く違っている。
なんといってもまず、中期のクラスがどこになるのかが発表されるのだ。幾久は恭王寮の鷹と喧嘩になった際、「お前を落とす」と格好いいことを宣言した手前、鷹でないと格好がつかない。
「行こうぜ、幾久!」
伊藤も弥太郎も、その結果が知りたくて仕方がないらしい。帰り支度に手間取っている幾久を急かし、幾久のメッセンジャーバッグのショルダーを引っ張っている。
「そんな引っ張んなくったって、行くって!」
前回とは違い、今回は幾久も伊藤たちと同じく、結果が知りたくて仕方がない。自分は絶対に大丈夫、と思いつつもやっぱり気になってしまう。
他のクラスの面々もそうらしく、そわそわと荷物をバッグにつっこんで、あわてて向かう人もいる。
伊藤と弥太郎、幾久の三人は張り出しの出ている職員室前に小走りで向かって行った。
職員室前は生徒がぎっしりと詰まっていて、廊下を通るのも難しいほどだ。
「どうしよう。これ、見れるかな」
幾久が心配げに言うが、伊藤が「任せとけよ」とどんっと胸を叩く。
そうして「ごめんなー、通してくれなー」といいながら、隙間をぐいぐい進んでいく。
ぶつかった相手が文句を言おうにも、体形が大きく、それなりに知名度がある伊藤が言うので仕方なく避けている。
「えーと、鳩、鳩、一年鳩、と……」
「あった!」
「あった!」
弥太郎と幾久が同時に声を上げた。
「すごい!いっくん鳩、一番!ぶっちぎりじゃん!」
「……本当だ」
少しぽかーんとしてしまうのは、二位を突き放してのトップだったからだ。
名前と点数、そして鳩での順位、そしてその隣にある文字は、「鷹」。
「来期鷹決定じゃん!」
「やった幾久!有限実行!」
ばんざーい、ばんざーい、と伊藤と弥太郎が両手を挙げて大喜びするのはまるで入試の時の家族みたいだ。
「それよりアイツはどうなんだよ、アイツは!」
伊藤が鼻息も荒く、幾久に喧嘩を売った鷹の名前を探し出す。
「見つけた!やっべ、鳩に落ちてるぜマジで!」
「本当だ」
「すっげえ、いっくんすげえ!本当に鷹を落としてんじゃん!しかも点数見てよ!いっくんの!」
そう弥太郎が言ったので、よくよく点数を見てみると、幾久の点数は鷹でもかなり上の方で、鷹の四番目と五番目の間だった。
単純な計算だけなら、幾久の成績は鷹の中で五番目ということになる。
「あと五人抜いたら鳳だったんかよ……」
「いっくん凄いな。有限実行どころじゃないじゃん」
先輩達のおかげだ、と幾久は心がじーんとした。
「それよりトシとヤッタはどうなんだよ」
「あー、見た見た、もう一瞬」
「なー、俺ら見事にそのまんま」
ということは、二人とも鳩クラスのままということになる。
「そっか……」
それだけが幾久は残念だ。折角毎日楽しかったのに。
「それもだけどさ、いっくん、鳳クラス」
「!そうだ」
鳳クラスには児玉がいる。成績がいまいちだと悩んでいたけれど、今回はどうなっているのだろうか。
慌てて鳳クラスの張り出しを見つめると、児玉の名前はすぐに見つかった。鳳最下位。しかも。
「―――――鷹」
児玉の来期のクラスは、鳳から鷹クラス、つまりは『鷹落ち』というやつだ。
「タマ、落ちちゃったね」
残念そうに弥太郎が言う。児玉が鳳を目標にしていたのは知っているからだろう。まるで自分が落ちたかのようにがっかりした声だ。
「寮は」
期末の終わりは試験結果だけでなく、寮もどこに配属されるかが決まってしまう。
幾久は相変わらず『御門寮』だが、児玉はどうなのだろうか。
弥太郎が首を横に振る。
「残念ながら、恭王寮のまんまだよ。あいつらも」
あいつら、とは恭王寮で児玉に喧嘩を売っている、鳩と元鷹の二人だ。
せめて児玉か、そいつらだけでも寮くらい違ったらよかったのに。
「ま、クラス落ちてるわけだから、少しは静かになると思うけどね」
「そういやもう一人は?」
幾久に喧嘩を売ってきた鷹が、次から鳩なのは知っている。だけど幾久たちと同じ鳩クラスの奴はどうなっているのだろうか。
「ああ、あいつ鳩のまんま。残念ながら」
「そっか。今までどおりか」
だけど、喧嘩を売ってきた鷹にはまあ、言うだけのことはし返したことになるのか。
「でもさ、来期はいっくんもタマも同じ鷹なわけじゃん?だったらちょっとは良かったね」
「そうかな」
幾久が呟いたのも無理はない。まだ自分はこの報国院に残るかどうか決めていないし、進路の事も悩んでいる最中だ。
来期のクラスは気になっていたし、実際上に上がれたからそれでいいけれど、でも本当は自分はどうしたいのだろう。
「それよりハル先輩の、見にいこうぜ!」
伊藤がそっちが本命とばかりに興奮する。
「そうだね」
幾久の勉強をしっかり見てくれていたのはいいけれど、そのせいでもし順位が落ちていたら目も当てられない。ちょっとだけどきどきしながら幾久は二年鳳の張り出しを見たのだが。
「―――――すげえ」
「化け物かよ」
「いやー、やっぱハル先輩はすげえな!」
伊藤は満足げだが、久坂と高杉の点数と結果を見て感想がいつもと同じく『やっぱりすげえ』で終わりなのかと少し笑う。
いつものとおりと言えばそうだが、今回の成績は、久坂と高杉の並びではあったが、どちらも一位だ。
そして吉田が五位。大健闘だ。
「先輩らすげえ」
幾久はそこでやっと、自分の立場と、どうして皆が『御門寮』にこだわるのかが判った。
本来はきっと、こんな風に鳳クラスの中でないと、御門寮の文字は見れないのだろう。
「お前らも見にきたのか」
その声に思わず振り向いた。そこには児玉が立っていた。
「タマ、」
「幾久、おめでとう。やったな」
そう言って手を差し伸べてくるので、つい反射的に手を伸ばした。ぎゅっと強く握られた。
「俺やっぱ落ちたな。仕方ねえけど、実力だよ」
声も態度もいつも通りなのに、児玉がひどく傷ついているのが幾久には判った。
確かに判っていたのかもしれないけど、それでも鳳から落ちるのは寂しいだろう。
「気を使うなよ。ちゃんと―――――戻るつもりだからな」
そう児玉が言う。きっとそれは、そうなのだろう。
「判った」
幾久が一言そう告げる。
「助かる」
そう児玉が、幾久に言った。二人は思わず頬を緩め、とんっと互いの肘を肘にあてた。
「じゃ、帰るか?このまま帰れるだろ?」
「うん。オレは帰るつもり」
そう幾久が言うと、弥太郎と伊藤が首を横に振った。
「俺は部活」
「俺も」
二人とも、部活動には熱心に参加している。今日もいつも通り、これから部室へ向かうのだろう。
「そっか。じゃな」
「おー、じゃな、幾久、タマ」
「じゃねタマ」
「じゃーねー」
のんびりと幾久が返事をする。職員室の前で二人ずつに分かれて、幾久と児玉は下駄箱へと向かった。
二人で校舎の外に出て、暑い中を歩き始めた。
相変わらず蝉はやかましい。これが夏中続くのだ。
「タマ、ソフトクリーム食いに行こうよ。暑いし」
「お、いいな」
いい結果も悪い結果も出てしまえばそれで終わりだ。
次にどうするかを考えないと、無駄な時間が増えるばかりだ。
「しっかし、判ってたこととはいえがっかりだよなぁ。やっぱ雪ちゃん先輩、正しいわー」
「そっか。雪ちゃん先輩、なんて?」
「なんか、俺の勉強の仕方って、詰め込み式の記憶するばっかりなんだってさ」
「へぇ」
「鳳にずっと居るなら、自分なりの考え方っていうのを身につけておかないとまずいってそういうの言われてさ」
がらりと和菓子屋の戸を開ける。
暑いからだろう、中は近所のご老人と報国院の生徒が沢山居る。
「すみませーん、ソフトふたつ!」
「ああ、ごめんね、ちょっと待っててねぇ」
おばちゃんの忙しそうに、はーいと返事をして、一旦外に出る。人数が多いからだ。
「自分なりの考え方って、なんなんだろうな」
ぽつりと児玉がそう呟いた。
「俺、今までずっとがむしゃらに努力するのが努力って思ってやってきたからさ、正直、なんで鳳はそれだけじゃ駄目なんだろって思う」
児玉を見れば幾久はそれがよく判る。確かにちょっと人当たりは雑だけど、まっすぐで、曲がったことが嫌いで、正直な児玉の努力と言うのはその性格のままなのだろうというのは判る。
「なんかそれと似たような事は、うちの先輩達も言ってた気がする」
「マジでか」
「うん。なんか勉強に自分を合わせるんじゃなく、自分の考え方に勉強を当てはめていくっていうのかな。ほらあのさ、ガタ先輩いんじゃん」
「おお」
「あの人、変だけどちょっと凄いんだ」
そこでソフトクリームが出来上がったので、二人はそれを受け取り、歩きながら食べることにしたのだった。
「ガタ先輩ってあの三年のオタクのだろ。雪ちゃん先輩もなんか一目おいてるっぽい」
「え、マジで?」
雪充は幾久も認めるほどの、すごくいい先輩だ。
それなのにあの自分勝手で我侭でマイペースでオタクな山縣のどこに一目おいているのだろうか。
「引いてるの間違いじゃないかな」
幾久が後輩らしからぬ事を言うが、児玉はそうでもないっぽいと返す。
「なんか自分の判らないジャンルの事を知ってるかららしいよ」
「多分それ、雪ちゃん先輩知らなくていいジャンルじゃないかな」
オタクでいろんなことをよく知っているが、それは果たして必要なものかどうかといわれれば、そんなに必要ない気もする。
「でも、なんか判る。ガタ先輩、マイペースだし自分勝手だし、我侭だけど押し付けはしないから」
「へえ?」
判らないのか、児玉が興味深そうに幾久を覗き込む。
「勝手になにかしてるけど、その勝手もちゃんと、例えば寮なら寮のルールに従った上でのギリギリのところを使っているというか。意思表示はちゃんとするし。なんか聞けば答えてくれるし。いいことばっかじゃないけど。フォローは絶対にしてくれないし、やたら人をディスるけど」
「けっこう性格悪いな……」
「悪い悪い。でもそれ判ってるし、嫌われてもいいっていうならそれでいいんだろうなって。自由すぎて凄い羨ましいときがある」
「なるほどな」
「考え方も凄い自由だから、時々意味判んないんだけど、でも答えてるのは間違いないんだよな」
「うーん」
意味が判らなくなったのだろう、児玉が返答に困っている。幾久もだよなあ、と思う。
「オレ、自分でも言ってる意味がよくわかんないんだけど」
「うん。俺もちょっと判らん」
二人でソフトクリームの最後のひとくちを食べてしまい、手をはたく。
「よくさあ、会話ってキャッチボールに例えるじゃん」
「うん」
そこは判る、と児玉も頷く。
「いつも凄い球投げてんのに、相手に合わせて、更にどの球投げたらいいのか教えてくれるのがハル先輩、『早いの投げるよ』って言ってくれるけど、いつものままの剛速球投げるのが久坂先輩、『大丈夫大丈夫、ちょっと早いだけ』って脅すけど、なんだかんだ、そこそこの球投げるのが栄人先輩」
「判りやすいな、判る判る」
児玉はおかしそうに笑っている。幾久も、これはいい例えだと自分でも思った。
「で、『球ください』って言ったら後ろ振り向いて暴投するのがガタ先輩」
「意味わからん」
「そのくせ、背後の球を拾いに行って、また違う方向に投げたり」
「ますます意味が判らん」
「オレもさ、最初は意味判らなかったけど、ガタ先輩はなんていうか。『なんで球投げる必要があんの?』みたいなことをいきなり聞いてくるというか」
「は?」
「まず投げる意味を伝えないと、相手にしてくんない」
キャッチボールを楽しみたいのか、それとも練習のためなのか。山縣とでなければ駄目なのか。
「面倒くせえな」
「うん、すっごい面倒くさい。けど、意味が判ったらそっか、って凄い納得できるんだよ。厨二病って馬鹿にされるけど」
「やっぱ雪ちゃん先輩が一目おくだけのことはあんのかなあ」
「判んない。けど、なんでも自分なりに解釈しようとするのは面白いと思う」
「自分なり、ねえ」
どんな?と児玉が尋ねた。
「ゲームに例えたら、どんな問題も解こうと思えるし、答えが用意されてるなら解けないはずはないんだって。授業内容なんか数年で大違いってことはないけど、ゲームなんか数年とかって別次元になるって」
「確かにな」
「だから、必要なのは変換能力らしいよ。授業をいかにゲームに変換できるか、それを考えたら楽勝なんだって」
「変換能力……」
児玉は真剣な表情になった。
「ガタ先輩曰く、ゲームで他人のペースに合わせるのは素人だって。自分のペースを理解して、このくらいだったら自分は行ける、とか夢中にならないって決めておかないと、俗に言うゲーム廃人まっしぐらになるみたいで」
「ゲーム廃人?」
児玉はあまりこういったジャンルに詳しくないらしく、よく判らない表情になった。
「オレも本当にそんな人いるのかってびっくりしたけど、トイレも部屋で済ませたり、学校行かないのなんて序の口で、会社辞めちゃうとか、座りっぱなしで病気になって足が腐った人とか」
「は―――――ッ?!マジで?んな人いんの?」
幾久は頷く。
「ガタ先輩の知ってる人にはいたらしいよ。オレも、ガタ先輩に聞くまでそんな人いるとか信じられなかったんだけど」
「そりゃすげえな。なんか逆に達人っぽいわ」
はーっと児玉は呆れるのと感心を同時に出している、複雑な表情になった。
「けど、なんかそのくらい集中できることを勉強に変換できるなら、確かにすごいいい成績取れそうとは思う」
「そりゃそうだけどな」
変換かあ、と児玉は腕を組み考える。幾久は言う。
「タマだったらさ、武術するじゃん、ボクシングも。それに運動能力めっちゃ高いし」
「まあそりゃ」
それなりに小さい頃からやってるから、と児玉は控えめだ。
「多分、タマならそういった武術が得意だから、それを変換したらすごい簡単にいろいろ出来るんじゃないのかな」
「武術……ボクシング……変換……」
「ボクシングって減量あるんだよね?よく知らないけど」
幾久はテレビで知っている程度の知識でそう尋ねる。
「階級によるけどな。出来るだけ有利な条件で戦いたいし」
「その減量とかも、結局勉強してることになるじゃん。オレだったら減量とかどうしたらいいか判らないし。あと、手加減とか?」
何度か児玉の腕っぷしで助けられたことがある幾久はそれを目の前で見ているから、児玉の凄さが素人目にも少しは理解できている。
「そういうよく知ってるとか、得意な事を、苦手なことから上手に変換できたら、多分ガタ先輩の言う変換能力の達人みたいになれるんじゃないのかな。だってタマって運動能力高いのって武術やってたから、ボクシングも全くの初心者よりも上手とか、そういうのあるんじゃない?」
「……」
児玉は立ち止まったまま真剣な表情になる。無言なのでちょっと怒っているのかな、と一瞬不安になるくらいの長い時間黙ったままだ。
「……タマ?」
オレなんか変な事言った?と幾久が尋ねようとすると、児玉は両手で幾久の肩をがしっと掴み、真正面から言った。
「幾久、サンキュー」
「へ?」
「俺、なんかすっごい、判る、と思う」
「判るってなにが?」
幾久の疑問には答えず、急に児玉は生き生きとしはじめた。
「中期は鷹だけどさ、俺、絶対に後期は鳳だわ。絶対だわ、うん、なんかいけそうな気がする」
「タマ?」
突然なにを、と思うが児玉は急に生き生きとしはじめた。
「俺、雪ちゃん先輩の言ってる意味が、やっと少し、判ったかもしんねえ」
「は?」
ますます意味が判らないが、児玉はまた、幾久の肩をばんばん叩いた。
「お前スゲーよ幾久。あと先輩もけっこうスゲーかもな」
「タマ?」
「こうしちゃいられねー、帰って勉強だわマジで!」
折角前期の試験が終わって、夏休みになるというのに児玉ははりきって勉強を始めるつもりらしい。
ちょっと面食らったけれど、鷹落ちして落ち込んでいただろう児玉が急に生き生きし始めたのは、幾久も少し嬉しくなった。
「じゃな、幾久!」
「うん、じゃあ」
そう言うと児玉は全速力で寮へ向かう。あの調子じゃ本当に勉強するんだろうな。
(オレも、負けてらんないな)
折角二年鳳のツートップと五位の先輩達に教えて貰ったのだ、ここで無駄にしては意味がない。
(もし、本当にここに居るのなら)
もし来期もここに居るのなら、タマと同じように鳳を目指そう。
心はとうにこちらに傾いているけれど、ひょっとしたら、という疑問が幾久にはある。
東京からここへは、逃げて来たようなものだ。
だから報国院を選ぶのも、ひょっとしたら自分の逃げを正当化したいのかもしれない。
だから、その意味をしっかり考えてみたい。
できればこの夏休みの間に。
「……暑いなぁ」
すでに児玉が走り去った恭王寮の方向を見つめた。
春は可憐な花をつけていた川沿いの桜は、いまは緑の葉をたくさんつけている。きっと幾久はここの桜を知らなければ、この木が桜だなんて判らなかっただろう。鬱蒼と生い茂る緑の葉は間違いなく桜なのに、幾久には別の木のように思えた。
季節が変われば見えるものが違うように、ここの風景もまた変わるのだろうか。足元に流れる澄んだ川の中では、鮮やかな錦鯉が悠然と泳いでいる。
「……かえろ」
寮に帰れば冷蔵庫に冷やした麦茶があるはずだ。
ひょっとしたら吉田が気を利かせて、アイスコーヒーを作ってくれているかもしれない。
そういえばソフトクリームまだおごってなかったや。
栄人先輩、次はいつバイト休みなんだろう。
麗子さんの晩御飯はなにかな。
暑いのに今年の夏は一度も夏バテをしていない。
そういえば体がいつもの夏より楽な気がする。
ひょっとしたら、見えないものがもういつの間にか幾久の中に入り込んで交わって、ここに同化しはじめているのかもしれない。
それが楽だとか、楽しいと思うのは逃げなんだろうか。わかんないな、と首を傾げつつも、幾久は日陰を選びながら、寮への道を帰る事にした。
「そうだ、今日は遠回りしよう」
気分転換にもなるし、丁度良いよな。
吉田にだまされて連れて登らされた時は、あんなにも苦しくて嫌で仕方なかった山側から回る御門寮への道も、今では疲れを感じることもなく、普通に歩くように登れるようになっていた。
いつの間にか、山に近い城下町の坂道に慣れている自分に幾久は全く気付かない。
今日は海がどんな風に見えるだろう、船は何艘見えるかな。
そんな事を考えながら、長い長い坂道を、勢い駆け上がって行ったのだった。
夏虫疑氷・終わり
2016/05/22 up