夏虫疑氷

(3)夏虫疑氷

昨日と同じく、午前中で授業は終わりだったので、幾久は食堂で先輩達と待ち合わせをした。
昼食はいつものように、弥太郎、伊藤、児玉の四人で食堂で済ませ、適当に「ぼちぼち解散するか」という所で幾久だけが離れた。
「先輩らと帰るのか?」
伊藤が尋ね、幾久が頷く。
「そう。吉田先輩に、アイスおごんないとだし」
「昨日奢るって言ってなかった?」
弥太郎がそう尋ね、幾久は首を横に振る。
「昨日は久坂先輩とハル先輩だけで、吉田先輩バイトでいなかったんだ。今日は休みっていうからさ」
「ああ、それで」
なるほど、と弥太郎が納得した。
「じゃあ、オレここで」
「うん、判った。明日」
「明日な、幾久」
「じゃあな」
弥太郎、伊藤、児玉に挨拶して、幾久は二年生達を探した。広くて人が多い食堂でも、あの派手な雰囲気の人たちはすぐにわかる。
「あ、」
実際、すぐに目に付いた。二年生の友人らしき人たちと居るので、幾久は頭を下げた。
「ウィーッス」
「お、後輩来たじゃん」
そう声をかけてきたのは二年生の先輩だ。三年生も居る。
「じゃあ、おれら帰る」
吉田が座っていた椅子から立ち上がると、久坂も高杉も立ち上がる。
「じゃな」
「おー、」
友人達と別れ、久坂と高杉、吉田と幾久の四人は下駄箱へ向かう。がやがやと賑やかで先週の試験期間の息苦しさが嘘のようだ。
「そういやさ、昨日なんか追っかけられたんだって?」
靴を履き替えた吉田が幾久の隣で言う。幾久は通学に使っているメッセンジャーバッグをかけなおし、「そうっす」と頷いた。
「久坂先輩、めっちゃ見てたんすよ。でも先輩ら、逃げちゃうし」
「そりゃね、こういう奴らだし」
吉田が言うと、久坂と高杉が不服そうだ。
「あんなのいちいちかまってられないよ」
「時間の無駄じゃ」
きっぱりと相変わらずな二人に吉田も苦笑いだ。
「ま、しょうがないよね。それよりさ、今日は俺だけおごりなんだよね?」
「そうっす。久坂先輩とハル先輩には、昨日おごりましたから」
幾久が言うと、久坂と高杉が「ええー」とわざとらしく残念そうな声を出す。
「なんすか」
「あれじゃあ、味なんか覚えてないよね」
「そうじゃ。食べる、つうより飲んだ感じじゃったのう」
「駄目っす。なんであろうが、一人一回しか奢らないッス」
きっぱりとそう言う幾久に、久坂も高杉も残念そうだ。
「いいじゃないっすか、先輩ら自分で買えば!」
「おごってもらうのがええんじゃ」
「そうそう」
「イヤっすよ。今日は栄人先輩だけっす」
「そういうことー」
吉田は昨日食べられなかった分、今日一人だけ奢って貰えるので機嫌がいい。
四人は昨日と同じルートで、いつも通る校門の道ではなく、商店街へと抜ける道を進んで歩いていた。
「じゃあ、仕方ない。自分の分は自分で買うよ」
「仕方ないのう」
「オレだってそうするんですから、先輩らもそうしたらいいじゃ……」
幾久の足が止まり、前を見る。石畳の階段を折りかけて、立ち止まる。
(あれ、昨日の)
石畳に立っていたのは、昨日追いかけてきた女子二人組みだ。うわっと思って思わず久坂の顔を見ると、無表情になっている。
(これ、怒ってるやつだよな、多分)
高杉を見ると、やっぱり不機嫌そうだが、面倒そうな顔の方が多い。久坂の不機嫌をフォローするのが自分だからだろう、というのは見て取れた。
だが、昨日と決定的に違うのは、吉田の存在だった。
どうしようと思っていると、幾久の思いがけない展開になった。
「吉田くんじゃーん」
えっと幾久は吉田を見ると、吉田はいつもの軽い調子で、昨日の女子二人に近づいた。
「えー、どしたのなんで?なんか用事?」
吉田の問いに、女子二人は「用事っていうか……」と言葉を濁しつつも、久坂を見て、そして吉田のほうへ戻った。
「吉田君は今帰り?」
「そうそう、いまから後輩とデート」
幾久を親指で指すと、女子二人は頭をぺこっとさげてきた。反射的に幾久も「あ、ドモ、」と頭を下げる。
(知り合いだったのか)
吉田はあちこち顔が広いし、バイトも数多くやっているし、他校にも友人や知り合いが多いので、別に驚くことはないけれど、流石に昨日の二人組みと知り合いとは思わなかった。
「この前、工業のやつらとコンパしたんだろ?」
「やだー、なんで知ってんの?」
「あ、それ乗り気だったの私じゃないし」
「またまたー」
「それよかさ、次は吉田君来てよ」
「そうそう、絶対に楽しいから!」
そんな風に女子と話し始めた吉田に、高杉が歩き出す。隣を久坂がいつものように歩き、吉田とすれ違う。
「栄人、わしらは先にいくけぇの」
「あ、うんうん、判った!」
吉田がそう言い、その背後を久坂と高杉、幾久がすり抜けようとした瞬間だった。
「ま、待って!」
女子の一人が、そう叫んで久坂の傍に近づいた。
しかし、久坂は無視して歩いている。
(え?マジで完全無視?)
驚きつつも幾久は後をおいかけて階段を下りるが、声をかけてきた女子のほうが、慌てて久坂を追いかけてきた。
「待って、待って、ったら!」
そう言って、久坂の腕を取った。と、反射的に久坂は腕を振り払った。
そして先を進もうとした久坂を高杉が追いかけ、幾久も追いかけるが、久坂に腕を振り払われた女子はなぜか今度は幾久を捕まえた。
「え?」
「待ってったら!久坂君!」
怒鳴った女子にあっけにとられ、幾久はつい足を止めてしまった。
(え、えぇ―――――ッ!)
腕をしっかりと掴まれて離さない女子にどうしていいか幾久はパニックだ。
流石に久坂のように、女子の腕を振り払って逃げるメンタルは幾久にはない。
それにあまりの事で硬直してしまって動けない。
高杉が「おい」と久坂を呼び止め、そして久坂は足を止め、振り返ったが、さっきと同じく無表情のままだった。
「せ、先輩……」
こういう時どうしたらいいのか判らず、幾久は情けない声を上げた。
面倒そうな高杉と無表情の久坂、そしてなんだか困った風な吉田に見つめられ、三すくみのような状態だ。
(こ、これって四すくみ?いや、違う?)
混乱する頭で幾久がどうしようかうろたえていると、幾久の腕を掴んでいる女子が口火を切った。
「久坂君、あたし、」
「興味ない」
びっくりするほど感情のない声に、幾久はえっと驚いて久坂を見た。あんなに冷たい久坂の声を聞いたのは初めてだったからだ。
(いまの、久坂先輩の声だよな?)
久坂は外見を裏切らない、すばらしくいい声なので聞き間違えることはない。
だけど今の久坂の声は、朝から晩まで、三ヶ月一緒にいる幾久ですら、一度も聞いた事のない声だった。
「離せよ」
久坂が言う。幾久の腕の事だ。
「―――――久坂君があたしに興味なくても、あたしは」
「離せって言ったの聞こえなかった?」
冷たい声に、幾久ですらどきっとする。女子なら余計だろう。
実際、吉田の傍に居る女子は驚いてうろたえているし、幾久の腕を掴んでいる女子の手も震えはじめている。
動けない状態の中で、突然久坂が降りた石段を再び上がり始めて、幾久の手を女子から奪った。
幾久の肘を引き、「行くよ」と連れ去ろうとする。
「ちょ……ッ」
体を引っ張らるが、女子はこりずに幾久の手を再び取った。
「久坂君、あたしとつきあって!」
うわ、言った、この状況でよくも言えるよ、と幾久は固まる。久坂もとうとう足を止めた。
女子の告白は続く。
「去年の文化祭で見てからずっと好きでした!お願い、一日でもいいの、あたしと付き合って!そしたら諦めるから!」
お願い、お願い、と繰り返す女子に、幾久はなんだか少し可愛そうになってくる。
だけどこれは久坂の事なので当然口をはさむわけにもいかない。
久坂は言った。
「離せって通じてない?」
冷たく言う久坂だが、女子はもう完全に引く気がないらしい。流石に久坂の顔は見れないのだろう、うつむいたまま幾久の腕を取っている。
「一日、ううん、半日、一時間でもいい!そうしたら絶対に諦めて、がんばれるから!お願いします!」
お願いします、と繰り返す女子だが、久坂の態度は全く変わらない。
と、ため息をついて高杉が石段を登ってきた。
「ええから、離せ」
ぱしっと女子の腕を取り、幾久から離す。女子が顔を上げ、その女子に高杉は言った。
「自分の都合ばかり押し付けるな」
高杉が言うと、さすがに堪えたのか、女子はやつあたりでもあるだろうが、高杉を睨んだ。
「あんたには関係ないでしょ!」
「ちょっと、高杉君にそんな言い方ないじゃない」
吉田の傍に居た女子がそう言い、ああ、こっちは高杉狙いだったのかと幾久は納得する。
これ以上、腕を掴んで戦争するのはやめてくれないかなあ、と幾久は迷う。
(うう、逃げたいけど、そういう空気でもないよな)
正直、自分は無関係だ。
吉田は女子と知り合いっぽいし、久坂と高杉は女子に好かれてる。つまり自分は無関係!よし!帰る!
と、考えてすぐさま実行できたらどんなに楽だったろうか。
「どうでもええから、関わらんでくれ。面倒はゴメンじゃ」
「あんたには関係ないって、言ってるでしょ!」
「煩い」
冷たい久坂の声に、真夏なのに冷や汗が出た。
「いい加減図々しいって気付けよ。お前が一番関係ないだろ」
(うっわー!先輩そりゃないっすよ!)
久坂の、あまりに『らしくない』言葉と態度に、幾久は背中に汗がつたうのが判った。
「あたしは、……久坂君が」
「あたしあたしって、自己主張ばっかりかよ」
「久坂君が、ちゃんと告白させてくれないから!」
女子が怒鳴り、幾久の耳がキーンとした。
(で、でけえ声)
しかも逆ギレだ。
こうなってしまっては収集がつかなくなってしまうのに、どうして言うのだろうか。
「あ、あたしだってちゃんと告白したら、できたら諦めるって、そう思ってて」
「さっきは『付き合え』ってしつこかったの」
余計な事を言わなければいいのに、高杉がそう言うと、かあっと女子の顔が赤くなった。
「おいお前!」
高杉が怒鳴ったのは、高杉目当てらしい女子に向かってだった。
「見たら判ろうが。ここにおっても恥かくだけじゃ。さっさと連れて帰ってやれ」
(うっわ、ハル先輩あざとっ!んなことするか?この状況で!)
高杉に好意があるのなら、きっと動くと見越してのことだろう。実際、その女子はそうした。
「ね、あのさ、帰ろうよ」
好きな相手にけんもほろろに振られたというか、最初から全く相手にされないなんて、考えもしなかったのだろう。
久坂に言い寄っていたほうは、傍から見ても判るくらいに体中をぶるぶると震わせている。
それは、恥ずかしさのあまりなのか、それとも怒りなのかは判らない。だけど幾久はいたたまれない気持ちになった。
心配で覗き込んだそのとき、その女子と目が合った。
と、突然、女子は幾久にすがりつこうと手を伸ばし、泣こうとしたのだろう。
その瞬間、久坂が幾久の腕を引き、女子は一歩前に出たまま、涙をこぼしていた。
「そういうのが図々しいんだよ。関係ない年下捕まえて自分のドラマに巻き込んで、慰めさせるつもり?」
さすがにそれは言いすぎだと幾久も思うのだが、久坂のあまりの刺々しい、というかもはや毒気としか言えないような言葉と態度に何も言えない。
「……久坂君に告白したかっただけなんだよ。判ってあげてよ」
高杉の命令で傍に来たもう一人の女子がそう言うが、久坂は冷たく言い放った。
「判ろうが判るまいが、僕を付き合わせるつもりだったろ」
迷惑、と久坂が言うと、フォローしたはずの女子もびくっと体を震わせた。
「付き合うはともかく、かもだけど、告白くらいちゃんとさせてあげて欲しい。この子ホントに久坂君の事好きで」
女子が説明し続ける途中で久坂が口をはさむ。
「君らの告白って、そんなに価値があるものなわけ?」
あるだろそりゃ、女子高生の告白なのに、と幾久は思うが当然何も言葉が出ない。
「価値とかそんなの、判らないよ」
そう高杉目当てのほうが言うと、久坂は心底軽蔑した眼差しのまま言った。
「価値があるって思ってるからこうやって押し付けてくるんだろ?でなけりゃできるわけないよな。邪魔だし迷惑」
もういい、と幾久は思った。
こんな久坂先輩の言葉は聞きたくないし、そもそも、あまりにも酷い言葉だと思った。
「そろそろええじゃろ」
高杉が久坂に声をかける。
「どっちにしろ、こっちには迷惑なんじゃって判ったか?」
(うわあ、ハル先輩までっ)
ちょっとはフォローを入れるかと思っていたらこの有様だ。全くフォローになってない。
「久坂も高杉もさ、ちょっと考えてあげなよ。そりゃお前らモテるけど、その言い方はないじゃん」
ね、と吉田が泣いていた女子に言うと、その女子はわっと泣き出し、吉田にすがりついた。
「うんうん、そりゃね、怖いよね」
と、吉田がちらっと久坂と高杉を見て、そして高杉と久坂の二人はふいっと歩き出した。
「おい!久坂!高杉!」
吉田がそう叫ぶと、振り返らないまま高杉が怒鳴った。
「お前とは絶交じゃ!」
久坂も言った。
「もう話かけるなよ。あとそんな図々しい女と関わるのもやめたほうがいいんじゃない?」
そう久坂が言うと、一層女子がうわあん、と泣き始め、幾久はあまりのことに、ただ久坂と高杉を追いかけながら、おろおろするしか出来なかった。


暫く三人は無言で歩いていたが、十五分程度も歩いたところでやっと幾久が口を開いた。
「あの、先輩、たち」
「ん?」
「なんじゃ?」
その声に心底ほっとした。いつもの久坂と高杉の声だったからだ。
「えーと……」
いざ声をかけたものの、何を聞けばいいのか判らない。
(告白した女子にあれはない?いやでもオレ関係ないし。助けてくれてありがとうございます?いやでもそもそもは久坂先輩のせいだし)
「いっくん災難だったねー」
そう久坂が言って笑うと、幾久は「だれのせいっすか!」と思わず言っていた。
「女子のせいじゃろ?」
高杉が言う。
「そうかもしれないっすけど」
そもそも、上手に流しておけばよかったのに、やたらつんけんして突き放して、怒らせたのはそもそもこの二人ではなかったのか。
「あの言い方、ないんじゃないんすか?」
「言い方?」
「女子に酷いつうか」
「いいよ別に。あのくらい言っても全く通じてないんだし」
全く、と断言する久坂にいやいやいや、と幾久は言う。
「めっちゃ通じてたじゃないっすか、あれキツイっすよ」
「もし本当に通じてたら、栄人にすがりついて泣いたりしないって。慰めてくれる相手選んでるから余裕あるよ」
「そうだ!栄人先輩!先輩らどーするんすか!」
突然幾久はそうだと思い出した。だが、久坂と高杉は顔を見合わせている。
「どうするって?」
「ほったらかしてること?」
「それもっすけど、そうじゃなくて!絶交ってマジっすか!」
さっきどう見ても、吉田と高杉、久坂の三人は仲違いしているように見えた。
女子を泣かせた久坂と高杉が、吉田を突き放して喧嘩した、という風には見えたのだが、幾久は違和感が拭えなかった。
この三人がそんな馬鹿なことで仲違いするはずもないし、高杉と久坂が小学生みたいな事を吉田に言うはずもないからだ。
「マジマジ」
高杉が笑いながら言うが、心配そうな幾久に、笑ったままため息をついた。
「もう終わっちょる。というか、意味ないじゃろ、絶交の宣言なんぞ」
「そんなの、いつはじめていつ終わるんだっていうね」
久坂も楽しそうにそう言っているので、良かった、やっぱり喧嘩じゃないんだと幾久はほっとする。
「驚いたじゃないっすか」
「ああでも言っておかんと、栄人がフォローできんからの」
「フォローさせなきゃいいのに」
あんなにも冷たく突き放せば、そりゃあ泣くだろうし知り合いの吉田がフォローしないわけにもいかないだろう。
「あれが一番じゃ。あのまま泣いちょっても、いつまで泣けばいいのか判らんし、栄人が自分の味方についたと思えばトーンダウンもするしの」
「栄人先輩、被害者じゃないっすか」
「そもそも、栄人の知り合いって事態で巻き込まれたんだから、完全に被害者でもないよ」
久坂がそう言い、幾久も思い出す。
「確かに、知り合いだと安心して来ますよね」
どう見てもチャンスを逃したくないから、ぐいぐい迫ってきたのだろう。
「じゃけ、栄人もフォロー入れるほうを選んだじゃろう?任せておけばええんじゃ」
「そうかもですけど」
ただ、それにしたってあの言い方はないんじゃないのかな、と幾久は思う。でもこの先輩達は、大抵自分の哲学に基づいてやっているから、その理由もあるのだろうけれど。

寮に帰れば、当然その理由をきちんと話してくれるかと幾久はそう思っていた。
けれど、寮に戻って何度尋ねても、「面倒だし」「面倒くさいから」とか、そういった言葉しか聞くことが出来なかった。


結局、吉田は夕食前に寮に戻って来たが、これといって変わった事もなく、高杉や久坂ともいつも通りだった。
それが逆に不気味で、幾久はどうしてなんだろうかと頭を悩ませた。


(こいうのって、誰に相談したらいいんだろう)
いつも相談事があれば、それらは全部御門寮の先輩達、つまりは二年生三人組に尋ねれば事足りた。
それぞれが、それぞれに博識できちんとした考え方をしていて、幾久の疑問にまるでパズルをはめるように、ちゃんとした答えを教えてくれた。
だから、こんな風にいざ、その当人の事を尋ねるとなると尋ねる人がいなくて困る。

翌日、いつものように一年生四人で食堂に行き、昼食のカレーを食べていると、児玉が言った。
「幾久、どうかしたのか?」
「え?」
「さっきから進んでないけど。具合でも悪いのか?」
「あー……や、別に」
首を横に振ったものの、自分でもなんとなく元気がないのは判っている。
と、弥太郎が言った。
「いっくん、今日は朝からそんななんだよ」
「なんかあったのか?幾久」
伊藤も心配しているが、幾久は首を横に振る。
「なんでもないって、ホント。ちょっと寝不足で」
はは、と笑って誤魔化した。本当ならちょっと相談したいのだが、伊藤は高杉に心酔しているから多分聞いても意味はない。それに、なんらかのルートで高杉に話が届いても面倒だ。
(誰かに、聞けないかなあ)
そう考えても、こういった時の誰かはいつも御門寮の先輩達だったのだ。
(いざ、誰かとなると、思いつかないもんだな)
この三ヶ月間で、完全に先輩達に頼りきった生活が染み付いてるのかな、と幾久は悩む。
そんな幾久を、児玉がじっと見つめ、尋ねた。
「あのさ、幾久今日、時間あるか?」
「え?ああ、うん。特に何もないし平気」
本当なら吉田にソフトクリームをおごるはずなのだが、昨日の今日で何も話をしていないし、吉田は確か今日もアルバイトが入っていたはずだ。
「じゃ、悪ィけどさ、ちょっと買い物付き合ってくれね?」
「え?いいよ?」
幾久が頷くと、弥太郎と俊文が首を突っ込んだ。
「え?なになに?買い物?」
「なんだよ、そんなん俺らも付き合うって」
そう楽しげに言ったが、児玉が返した。
「買いに行くの、参考書だぞ?」
「おれ行かね」
「おれもー」
さっきあれだけ乗り気だったくせに、さっと二人は引いてしまい、幾久はちょっと笑ってしまった。

部活があるという伊藤と弥太郎と別れ、幾久と児玉は商店街の書店へ向かう。
まさか昨日の今日であの二人がいないよな、と思って用心したが、当然居るはずもなかった。
ほっとして商店街を進み、いつもの書店で適当に本を見て、参考書の中身を確認したが、児玉の求めたものはなかったらしく、そのまま二人で寮へ帰ることにした。
「悪かったな、つき合わせて」
「いいよ別に。どうせ暇だし」
幾久は気にしないと首を横に振る。
商店街から恭王寮と御門寮への方向は同じなので、二人は暫くお喋りをしながら、商店街を抜けて歩く。
和菓子屋を抜け、川の橋、恭王寮へ向かう道と御門寮への道の分かれ道のところで、児玉が足を止めた。
「幾久。悩んでんのか?」
「えっ?」
突然児玉に言われ、幾久は驚く。
「なん、で?」
「なんとなく。勘」
勘だけでそうきっぱりと尋ねるのも凄いと思うが、実際その勘は当たっているのだからもっと凄いのかもしれない。
「……ちょっとだけだよ」
「話せよ」
橋の欄干に腰をかけ、児玉が幾久をじっと見つめてくる。相変わらず目つきが悪く、睨まれているような印象があるが、付き合いがそれなりに深くなった今ではそれも慣れた。
「話、聞かれない場所のほうがいいんだけど」
この通りは観光客も多く、生徒もよく見かける。
幾久が言うと、児玉がじゃあ、と提案した。
「うちの寮なんか、どう?」
「恭王寮?いいの?」
恭王寮は行った事がある。幾久が他校の生徒にネクタイを奪われて、児玉に助けて貰って、戻ってくるまでネクタイを借りる事にしてお邪魔したのが恭王寮だ。
「でも、あいつらいるんじゃね?」
幾久が心配したのは、児玉や自分と喧嘩の真っ最中の、鳩と鷹のむかつく一年生コンビだ。
「ヘーキだよ。あいつら雪ちゃん先輩にめちゃくちゃ怒られてたから、あれ以来静かなもんだぜ」
ちょくちょく何か言いたげだけど、と児玉は笑う。
あれ以来、とは幾久と児玉の二人と食堂で喧嘩になって以来、ということだ。
児玉が武術の経験、しかも今はボクシングをやっているからそう反撃もできないのを良い事に、喧嘩を売ってきたむかつく奴が二人も恭王寮には存在する。
「うちの寮、レンガ作りだから防音効果はスゲーし、応接室なんかドア閉めたら全く聞こえねえから」
「許可ないけど、いいのかな」
「雪ちゃん先輩に聞いて、駄目だったらほか行けばいいじゃん」
「そっか」
じゃあ、そうする、と幾久と児玉は並んで恭王寮へと向かったのだった。


児玉が一足先に寮へ入り、駄目でもOKでも戻ってくることになっていた。
数分も待たないうちに、児玉が笑顔で戻って来た。
「幾久、入れよ。OKだってさ」
「マジで?」
さすがだなあ、と思いながら幾久は恭王寮の敷地内へと足を踏み入れたのだった。


恭王寮は夏の盛りで、やはり緑が生い茂っていた。
応接室はガラス張りだったのでさぞかし暑いだろうと思っていたが、植えられた木々が陰を作っていたし、しかも冷房がきいていたので快適だった。待ち構えていたのは三年鳳の桂雪充だ。雪充は後輩思いで、この前も幾久が喧嘩をしている最中、仲裁に入って収めてくれた。勿論、あとでちゃんと叱られたけど、きちんと諭されたので、怒られたという感覚はない。
「お邪魔するッス」
「いらっしゃい。気にせずゆっくりしてっていいからね」
「ウス」
雪充はすでに着替えていて制服ではなく、Tシャツにアイボリーのチノパンツだ。
「でさ、幾久。雪ちゃん先輩、居たほうがいい?」
児玉に言われ、幾久は迷って雪充の顔を見る。
(え?どうなんだろ?)
雪充は久坂、高杉、吉田の三人と昔なじみのはずだ。
だったらそっちにつながることもあるかもしれない。
だけど、ひょっとしたら、幼馴染だけに、よく知っているかもしれない。
迷う幾久に、雪充が言った。
「どうする?僕はどっちでも構わないけど、協力できる事なら協力するよ?」
雪充にそう言われると、できればそうしてほしい、と幾久は思う。きっと児玉では、詳しくは判らないだろうからだ。
「あの。ウチの先輩らに内緒ってできますか」
「瑞祥?ハル?栄人?」
「……全員」
幾久が言うと、雪充は児玉と顔を見合わせて、頷いた。
「判った。でも、僕が言うべきって判断したら、その時は伝えるよ?」
「ウス」
こくんと幾久が頷くと、雪充がソファーに腰を下ろした。
「じゃあ、聞こうか。その前にだけど、いっくんなに飲む?」
「へ?」
「コーヒー?紅茶?ジュース?水?」
「なんでもいいっす」
相変わらず喫茶店みたいだな、と幾久はちょっと、心が軽くなったのだった。



2016/05/21 up