夏虫疑氷
(4)夏虫疑氷
幾久がなんでもいい、と言ったので児玉が「じゃあ、オレアイスコーヒーがいい」という意見に全員が同意することになり、児玉が着替えるついでにアイスコーヒーを持ってきてくれることになった。
児玉がいない間、雪充は幾久にいろいろ訪ねてきた。
「試験の結果、良かったみたいだね」
「あ、ハイ。先輩らがすっげえ、勉強みてくれて」
でも、と幾久は言う。
「タマは、あんま良くなかったみたいで」
「そうだね。ちょっと厳しいね」
雪充が言うと幾久はやっぱりそうなのか、と少しがっかりした。
「あんなに頑張ってたのに」
「それでも鳳は厳しいって事だよ」
なんとなく結果が雪充にはわかっているのではないか、というような雰囲気に、幾久は(やっぱ、タマ、落ちちゃうのかな)と感じた。
「気にするな、とは言えないけど、リベンジする機会がちゃんとあるんだから、そうなってもいかに腐らずに自分を保ち続けられるか、が大事になってくるね」
「大変っすね」
「それをしてこその、鳳だよ」
これが他の誰かだったら、少しは鼻につくはずなのに、雪充相手だとそんな風に感じない。
(イケメンって得なのかな)
しかし、昨日のような目にあってしまうのならやっぱり損な気もするし。
(そもそも、オレ、何を相談したいんだっけ?)
そういや、悩みはあったけど、その悩みをしっかりと考えていなかった事に幾久はいま気付いたのだが、と、同時に着替えを済ませた児玉が「お待たせッス!」とアイスコーヒーを三人分運んできたのだった。
児玉は黒いTシャツにデニムジーンズ、そして裸足という健康的な格好で、スリッパ代わりのクロックスを引っ掛けていた。
「あいつら出かけてんだってさ」
児玉が言うと幾久はそうなんだ、とほっとした。
いくら聞こえなくても嫌いな人が近くにいるのは気が引けたのだが、児玉が確認してきたらしい。
「つか、この寮に残ってるの数人しかいないって。みんな部活とか」
「そっか」
夏休みを前に、試験も終わったし本格的に部活に打ち込む時期なのだろう。
「じゃあ、安心もできたことだし、いっくんの話、聞こうか」
雪充に促され、幾久は頷いて説明を始めたのだった。
自分が何に悩んでいるのかは判らない、と前置きした上で、幾久は一昨日前からあったことを説明した。
どこかの女子生徒が、久坂を好きなこと、追いかけてきたこと、久坂と高杉の二人が揃って逃げた事。
寮に帰って話をして、二人が自分達に好意を向ける女子をうっとおしく思っていること、女子に対する考えが厳しい気がすること。
そして昨日、久坂が女子に対して酷い振り方をしたこと、巻き込まれたこと。
吉田がフォローに入ったけれど、久坂と高杉は女子を庇う吉田と『絶交宣言』してその場を去ったこと、その日も話を聞いたけれど、二人に悪びれることはなく、ただ面倒に巻き込まれたとしか思っていないこと。
児玉と雪充はじっと幾久の話を聞いていた。
「幾久、災難じゃん」
「そうだけど、なんか巻き込まれたことよりも先輩らのほうが凄くて」
いつもの幾久なら、巻き込まれた事に文句を言ったりするだろう。面倒なことは嫌いだからだ。
だけど実際、久坂がいくら興味がないとはいえ、女子に対してあんなにも冷たく酷いことを平気で言うなんて、そのほうが驚いた。
しかもいつもなら宥めるほうの高杉まで似たような感じだった。
吉田も女子をフォローしていたらしいが、それも結局、久坂と高杉との連係プレーの一環というかんじで、後から謝っていたのは吉田の方だった。
久坂の怖い雰囲気にも驚いたし、高杉の冷たそうな、突き放す雰囲気もちょっと怖かった。
あとから気付いたが、吉田はわざわざ、女子の前では久坂の事も高杉の事も苗字で呼んでいた。
いつもなら、名前で呼んでいるのに。
傍から見れば強固な幼馴染の関わりとも見えるけれど、なんだかひどく、悪い人たちのように思えて幾久はただ、びっくりしていたのだ。
「仕方ないよな。久坂先輩、すっげモテるし、面倒だとは思ってそうだし」
児玉が言うと、幾久は「判るけど」と返す。
「でもさ、もうちょっと言い方なかったのかなって思いはするよ。久坂先輩、オレでもコエエって思ったんだから、女子なんかもっとだろ」
「……じゃあ、いっくんは、どう言うのがいいと思う?」
雪充が尋ねた。
「どう?うーん、そうだなあ。気持ちは嬉しいけど、ごめん、とか?」
「嬉しいなら、なんで断るのって言われたら?」
「えっそれ困る」
なんでだ、と幾久は驚く。ごめんって言われたら、引き下がるものじゃないのか。
だけど幾久は久坂が言っていた事を思い出した。
『だからさっさと断るんだけど、『せめて一回付き合ってみて決めて欲しい』とか言われるわけ』
あ、これか、このことか、とやっと幾久は納得した。
「なんか困るっすね、そう言うの」
「そんな風にね、断っても断っても、なんとかすがり付こうっていうのがホント多いわけ。だから多分、それでも言葉は選んでいると思うよ。選んで使って繰り返した結果、あれが一番いい、と判断したからそうなんじゃない?」
「そうかもっすけど。ただ」
「ただ?」
「……女子って組むとなんか面倒じゃないっすか。久坂先輩、女子をあんな振り方して、なんかこう、やり返されたりとかないんすか?」
正直、高校生レベルの女子の友達づきあいがどんなものかは判らないが、久坂が酷い態度を取ったことがばれたら『ひどぉい、久坂って許せない』とかならないのだろうか、と幾久は思うのだが。
「それはないよ」
「そうっすか?」
心配そうな幾久に、雪充が「ちょっと待っててね」と一旦部屋に戻り、再び脇に大きなファイルを抱えて戻って来た。テーブルの上に広げると、いろんな学校の写真と制服なんかが載っていた。
「あのさ、女子って制服だったんだろ?だったら、どれか覚えてる?」
雪充の問いに、幾久は頷く。ファイルをめくられている中で、ひとつ、覚えがある制服があった。
「あ、これっす!ここの制服っした!」
かなり着崩してはいたが、制服はちゃんと覚えている。念のため、似たような制服がないか探したが間違いではないようだった。
「あと、工業の奴らとコンパしたって言ってたんだよね?」
雪充の問いに、幾久は頷く。
「栄人先輩が、女子達にそう言ってました」
「じゃあ、間違いない。商業の女子だ」
雪充は判った、と納得したようだ。
「工業と商業は割りと学校が近くてね。レベルも似たようなものだから付き合ってる奴も多いんだ」
「そうなんすか」
「助かったよ」
なぜか雪充が言うが、幾久はなんのことか判らない。
「それより、幾久はなんで、なにを悩んでんだ?」
児玉が尋ねた。
「―――――判らない。ただ、先輩らってああいう人じゃなかったからびっくりして」
少なくとも、確かにちょっと癖はあるし、意地悪な部分もあるけれど、幾久にとってはいい先輩だった。
時々お節介で、邪魔もしてくるけど、面倒見はいいし、だから幾久もよく甘えている。
兄、というものを持ったことがないけれど、もし兄が居たらこんな風なのかな、だったらけっこう楽しいな、と思うくらいには。
「先輩達って、確かに時々洒落にならないくらいキツイ時あるけど、でもなんかあの女子には態度違ったっていうか」
「瑞祥はね。そういうの一番嫌うから」
仕方ないよ、と雪充が言う。
「色々理由はあるけど、瑞祥は肩書きとか外見とか、そういうのを使われるの凄く嫌がるんだ。女子が告白ったって、他校の女子がなんとなく、だろ?」
「久坂先輩も似たような事言ってました」
「だろうね。実際告白とかって、最初は嬉しいかもしれないけど、そのうち面倒になってくるよ」
「やっぱそうなってくるんすか?」
児玉が興味津々で雪充に聞いてくる。雪充はまあね、と頷いた。
「やっぱモテるって嬉しいじゃない?でもね、そのうち判るんだよ。自分が所詮、見せびらかす道具でしかなくって、誰かのコンプレックスの解消の為に使われてて、なんか嫌だなって」
「それも、久坂先輩が言ってました。ひょっとして、雪ちゃん先輩の受け売り、っすか?」
「こういう言い方をしたらそうなのかも。でも、思っていることは変わらないよ、僕も瑞祥も」
「俺、そんなんないっすけど」
児玉が不服そうに言うと、雪充は笑う。
「そりゃそうだよ、だってタマ、入学してからもずーっと習い事か勉強か、しかしてないじゃない。市内に制服で出た?」
児玉は首を横に振る。
「そんなんしないっす」
「だろ?だったらそんなのないよ。市内に自分から出るか、どこか他校の文化祭にでも制服で行くか、それか柳桜祭で声かけられるか」
「そういや、告白した女子も文化祭で久坂先輩を見て好きになったって言ってました」
「よくあるパターンだよ」
珍しいことじゃないと雪充は言う。
「特に去年の柳桜祭はね、演劇の出しものが凄くて、あれで一気に二人の評価が上がりまくったからね。あの頃告白なんか順番制かってくらい凄かったよ。バレンタインも」
「……」
凄いしうらやましいけど、久坂のあの態度ではどうにもならなかっただろうことは想像はつく。
「本気の子もいたかもだけど、『あわよくば』みたいなノリの子だって多いよ。瑞祥は外見はあれだし、頭もいい。出自だって立派だし、家も大きい。モテないほうがおかしいよ。ただ、瑞祥はそういうの嫌ってるけどね」
児玉が頷いて言った。
「俺、久坂先輩が面倒くさいっての、なんか判るかも。モテたことないけど、勝手に言い寄られたら確かに面倒だよな」
幾久が一緒のせいで口調がすっかり砕けてしまっている。
「女子なら殴るわけにも喧嘩するわけにもいかねーし、だからって相手すんのもなって思うし。試験前にそんなんやられたら、マジぶっとばしたくなるかも」
児玉が言うとしゃれにならないが、鳳に居ることを目標にして必死に頑張っている児玉にしてみたら、確かに邪魔されるのはうっとおしいだろう。
(なんだか、先輩らに似てるな、タマ)
自分よりもむしろ、御門にふさわしいのは児玉のほうじゃないのかな、と幾久は本気で思う。
児玉の感性は幾久よりも、むしろ御門寮の二年生達に近い。
「久坂先輩が女子にキツかったってのは、しょうがない。だって幾久巻き込んでんだもんな。怒るよ」
児玉の言葉に驚いていると、雪充も頷く。
「そうだよね。それはまずかったよ。せめていっくんのいない場所ならともかく、巻き込むなんて一番やっちゃいけないことだし」
「ひょっとして、久坂先輩と高杉先輩があんな酷かったのって、オレのせいっすか?」
幾久はそう尋ねるが、雪充は「違う」ときっぱりと答えた。
「正直、いっくんの見てるあいつらの方が、僕からしたらイレギュラーなんだよね。あいつらは、むしろその告白した女子に対する態度みたいなのが『普通』なんだよ」
「―――――え?」
「あいつらは昔からキツイし、最近でこそそんなに揉め事も起こさないけど、けっこう酷いのがデフォルトなんだよ。さっきいっくんさ、『女子が組んで仕返し』してきたら面倒って言ってたけど、むしろ他校でも、あいつらがああなのは有名だよ」
だから逆に、女子がわめいたとしても「ああ、あいつらああだよな、有名じゃん」で終わるだろうと雪充は言う。
「幼馴染の僕からしても、いっくんに対する態度は時々驚いてるよ。あいつら、あんな面倒見いい所あったのかって」
「いいっすよ」
先輩達の名誉の為に、幾久は説明する。
「栄人先輩はいいお母さんみたいに、なにかと世話してくれるし、ハル先輩はなんかあったらすぐに気付くし、聞き出してくるけど解決策も教えてくれるし、服とかくれるし。久坂先輩は意地悪なとこあるけど、勉強も付き合ってくれるし、ガタ先輩威嚇してくれるし」
「それが僕としては信じられないだよね。だからいっくんが今更、そのくらいで瑞祥やハルの態度に驚いてるのが、ええって感じかな」
「……」
「仕方ねえんじゃん?だって幾久は身内なんだろ?だったら特別なの当然なんじゃね?」
児玉が言い、雪充がそうだね、と頷く。
「身内?」
「だろ?だから優しいんじゃねえの?先輩達」
確かに以前、高杉に『他人じゃない』と言われたことはあるが、まだたった三ヶ月しかいないのに、そこまで関わりが深くなるものだろうか。
「そうだろうね。あいつらがそう思ってるなら、いっくんの言ってることはおかしくないね。家族を巻き込んだら、そりゃ瑞祥は本気で怒るよ。あいつは人一倍、身内意識が強いから」
幾久には、雪充の言っていることの方が判らない。
久坂が身内意識が強いのはわかる。入寮当時、あんなにもはっきりと高杉を失いたくないというくらいなのだから。
そんな幾久にとっての先輩達は当然、幾久の目を通してみた先輩達でしかない。
だから、そうじゃない部分を見て驚いてしまった。
だけど、幼馴染の雪充が言うように、もしあの昨日みたいな久坂の態度が幾久以外にとっては『普通の久坂』だというのなら。
「先輩達って、本当はあんなキツイ人たちなんすね。オレの前ではああじゃないのに」
「誰だって、好きな家族には一番やさしい部分が出るよ。君はあいつらの家族だろ。だから当然といえば当然なんだよね」
雪充はなぜか嬉しそうだ。
「雪ちゃん先輩、嬉しそう」
雪充の大ファンの児玉が言うと、雪充は「まあね」と笑った。
「あいつらがいっくんにキツくないっていうなら、きっとあいつらにとって、いっくんはいい存在なんだなって思ってさ」
本当は心配だったんだ、と雪充が言う。
「御門寮を僕が出て、一年生が一人も入らなくて。それでもあいつらなら、適当にうまくやったとは思うよ。嫌いな奴なら追い出すだろうし」
「そんなんマジでするんすか」
「するする。でも追い出されるほうにも原因があるよ。一方的に気に入らないから、で追い出すような真似はしないし、僕がさせないよ」
そのあたりはやはり先輩なのか、雪充はきっぱりと言う。そこがなんだか、先輩っぽくてかっこいいなと幾久は思う。
「納得した?」
雪充が言うと、幾久は頷く。
「判りました。ちょっとびっくりしただけでした、オレ」
「そっか。じゃあ、良かった」
久坂の態度が女子に対して酷いとは思ったが、女子にもそれは言われても仕方がないことがあったのか、と判れば幾久だって一方的に久坂が酷いとは思わない。
「いっくんからしてみたらさ、あいつらって凄い賢く見えると思うんだけどさ」
「はい。それはもう、滅茶苦茶思います」
来年、自分がああまでなれるのかと言われたら絶対に無理と返せるくらいには自信がある。
学年とか学校とか、そういうレベルじゃない、違うなにかがあの人たちにはある気がしている。
「けどさ、忘れないで欲しいんだけど、所詮あいつらも、いっくんよりひとつ年上なだけで、同じ高校生なんだよ。賢くても、大人びてても、そこだけは忘れないでいてやって欲しいな」
「?―――――ウス、」
よく判らないが、とりあえず頷いておいた。そんな幾久の考えも雪充はわかっているようで、ありがとう、とだけ言って笑っていた。
夕方に近づいている時間でも、この地方は全く日が落ちる様子がない。
まだ明るいので児玉はコンビニに行きたいといい、雪充に外出許可を貰い出かけることになった。
恭王寮からコンビニはけっこう遠い。
御門寮に近いほうにあるコンビニへ児玉は向かうことになり、途中まで幾久と一緒に御門寮への道を歩いた。
流石に昼間ほどではないが、それでも汗が出るくらいには暑い。
「良かったな幾久」
「ん?」
「悩み。解決したじゃん」
「まぁね」
悩み、というほどの事でもなかったが、それでも気になっていた事が消化されるのは悪くない。
「ごめんなタマ」
「ん?」
「心配かけて」
「別にいいよ。幾久がそんなだと、雪ちゃん先輩も気にするし」
はは、と幾久が笑う。
「なんか雪ちゃん先輩、いい人すぎ」
他寮の一年生なのに、ここまで気にかけるなんて、普通ではありえない。児玉と弥太郎の友人だから気を使ってるのかもしれないけど。
「それさ、ちょっと違うんじゃねえ?」
「違うって?」
「多分だけどさ。雪ちゃん先輩にとっては、多分、所属寮はいま恭王寮でも、御門寮の家族のつもりなんじゃね?だから、きっと幾久の事も普通に自分の、寮の後輩みたいに思ってるんじゃないのかな」
「……そうかな」
「俺もよく判らないけどさ。でもそれが一番しっくりくる。やっぱ雪ちゃん先輩、御門寮に帰りたいんだろうし」
雪充は御門寮をまとめていた手腕を買われて、恭王寮へ面倒役を頼まれて、今年の春から恭王寮に移動になった。
二年べったりて、しかも幼馴染ばかりで、あんな濃い寮だったら本当に家族みたいだったろうことは想像がつく。
「御門の先輩らもさ、ちょっとアレな感じだけど、幾久を守ったんだろ。いい先輩だと思う。やりかたはマズイかもしんないけど、雪ちゃん先輩の受け売りで言うならまだ高二なわけで、完璧じゃないし」
「そうかもだけど、もうちょっと先輩達なら上手にしそうなのに」
そう言う幾久に児玉が噴出す。
「なんかすげえのな、幾久。先輩らを滅茶苦茶、かってんのな」
「そりゃ、まあ、鳳だし、先輩だし」
「そういうんじゃなくてさ―――――なんか、雛みてえ」
「ヒナ?」
それって鳥の、あの子供のやつだろうか。
「ひょっとしてタマ、オレの事ちょっと馬鹿にしてる?」
「や、馬鹿にはしてない。面白れえとは思うけど」
そう言うが絶対にちょっとは馬鹿にしてるよな、と幾久は面白くない。
だけど先輩達にすっかり頼りきっている生活だと今回の事で気づいたから、そう判断されても仕方ないとも思った。
「頼りっきりもまずいって。オレ、来期もここにいるかどうか判んないのに」
まだ進路ははっきり決めていない。父もそのことを理解しているのか、詳しくは尋ねてこない。
幾久の心はずっと揺れっぱなしだった。
東京に戻るのか、ここに居るのか。
だけど、児玉は幾久の言葉になぜか笑う。
「―――――あのさ幾久。お前、居ろよここに」
分かれ道の橋の上で、幾久と児玉は向かい合う。
やっと空の遠くがオレンジ色に染まり始めている。
これから徐々に、日が落ちるのだ。
幾久は黙ったままだ。
なにかを答えなければいけないのかもしれないけど、幾久は何をどう答えればいいか判らない。
進路の事も、ここに居ることも。
決定打がなにもないからだ。
そんな幾久に、児玉ははっきりと告げた。
「俺も、なんでって言えねえけど。でもお前はここが似合ってると思う」
似合ってる、という言われ方に幾久は目を見開いた。
ここに居るのが得だとか、将来の為とか、どっちがいいのか、そんなことばかり考えていたので、似合うといわれて面食らった。
幾久の戸惑いが判ったのか、児玉も少し困ったふうで、でも笑顔で幾久に告げた。
「きっとお前、必要なんだ」
じゃな、と児玉が手を振りコンビニへ向かった。
幾久はその背を見送りながら、児玉の言葉の意味を何度も何度もかみ締めながら、御門寮へ一人歩いて帰って行くのだった。
寮に帰ると吉田以外の全員がすでに寮へ帰ってきていた。下駄箱はいつも通りの靴が並んでいる。
「ただいまーッス」
そう言ってあがると、お帰りなさい、と麗子さんの声がした。
「いっくん、今日は遅かったのね。どうしたの?」
「あ、タマとずっと喋っててつい。参考書も見に行ったんすけど、いいのがなくて」
「夏休みに探したらいいわよ」
「そっすね」
そう言いながら着替えるために部屋へ向かう。
いつものTシャツに高杉からのお下がりのハーフパンツに着替えるとしっくりとする。
「ただいまっす、先輩達」
「おかえり、いっくん」
「おう、お帰り」
先輩達はいつも通りで、幾久はなんだかほっとした。
(何も知らないんだもんな、当たり前か)
冷たい麦茶が注がれたグラスが汗をかいている。
二人はなにか打ち合わせをしているらしく、大きな紙を広げていろいろ話の最中らしい。
「それ、何すか?」
「柳桜祭の準備じゃ」
「え?それって十一月っすよね?」
柳桜祭は報国院の文化祭だ。かなり大規模なもので、地元の人々のお祭りもかねているとのことだ。
「夏休みに入るともう部活が忙しくなるからね。今から準備しておかないと」
高杉と久坂、そしてなぜか幾久も名ばかりの演劇部員だ。一年に一度、柳桜祭での発表さえしておけば活動していると認められるので、面倒が嫌いな久坂と高杉はそこに所属しているとのことだった。
「へえ。なんか大変っすね」
名ばかりの部員で、しかも自分は全く関わらないかもしれない内容なので、幾久は参加しなくてもいいはずだった。
「それより幾久、お前、補習はどうするんじゃ?」
「補習?ああ、夏休みの、っすよね」
鳩以上であれば、報国院高校の主催する補習授業が受けることが出来、お盆を過ぎたあたりから集中して行われる事になっている。
「一応、参加希望は出してます。進路、まだわかんないっすし」
「あれ?いっくんまだ悩んでるの?」
久坂が驚いたように言うが、幾久は頷く。
「正直、ほんっと判らないんす」
今までずっと母親の言うなりで、そういうものだと思ってきたのに、父親の言うとおりに報国院に来てから幾久の心は大きく揺らいだ。
母親を疑うように、同じように父親の事も疑って考えてみたけれど、今の幾久には父親のほうが、まだましな大人に思えた。
「父さんからもせかされているわけでもないし、じゃあ、まず現状維持かなあとか」
本当に東京に戻るとしても、どのレベルの学校なら編入できるのか。
ただ、上を狙うというのなら、報国院でも問題はない。むしろ、報国院で鳳なら、きっとそれなりの学校を受けることが出来るだろう。
「報国院を辞める理由がないんすよね。かといって、居る理由もなんか……ガキみたいな理由しかなくって」
友達がいるから。仲良くなったから。先輩が甘やかしてくれるから。いい人が居るから。自由だから。
風景がとても、綺麗だから。
真夜中に電車の走る音と海から船の汽笛が聞こえて、それがとても好きだから。
「オレがここに残りたい理由って、将来の事が入ってないんすよね」
いい学校に進むために。将来の目標の為に。
そんな正しい理由がひとつもない。
まるで子供みたいに、毎日の楽しさに流されてしまっている。
「いっくんの言う将来って、いつの将来?」
「……いつって」
そんなの、大人になって、自分の望む職業について。
その為に、そこに近づくための、そのための。
「わかんないっす。将来って、見えないくらい遠いから、将来、じゃないんすか?」
「見える程度の将来にしとけば?」
久坂が言い、高杉が顔を上げた。
「そうじゃの。そのくらいが幾久には丁度ええかもしれんの」
「もー、なんで先輩らまでオレを子供扱いするんすか」
「仕方ねえ。実際子供じゃ」
「そうでもないっすよ」
ふんっとそう言ってみるが、久坂も高杉も笑うばかりで、幾久は少しむかついた。
「それより夏休み、いっくんいつから帰省するの?」
「え?」
いきなり帰省と言われて幾久は驚く。
「帰省って、帰らないといけないんすか?」
試験に忙しくてそんな事全く考えていなかった幾久はええっと驚くが、それに久坂と高杉が驚いた。
「当然じゃろ。夏休みなのにずっと寮におるわけにはいかんじゃろうが」
「え?じゃあハル先輩も帰るんすか?」
「おお」
そんなぁ、と幾久はがっくりする。夏休みだというのに、あの煩い母親の元にずっと居なければならないのかと考えただけでウンザリする。
「えーっ、嫌だ!オレずっと寮に居る!」
「いっくん子供かよ」
久坂があきれるが、幾久は驚きのあまりむっとする。
「だって聞いてないっすもん!」
夏休みまであと一週間程度、それからもう東京に戻るなんて絶対に嫌だ!というか母親が嫌だ!と幾久は思う。
「そんなの手帳に全部書いちゃるじゃろう」
手帳、とは報国院の生徒が全員貰っている、生徒手帳兼、スケジュール帳兼、日記帳だ。
それには報国院の試験スケジュールなどが全部書いてある。幾久は慌てて自分の手帳を確認する。
「本当だ。退寮日って書いてある」
信じたくないけれど、終了式の翌々日には必ず退寮することと書いてある。
「うわー、信じられない」
文句を言う幾久に久坂のほうが信じられない、と言い返した。
「なんで夏休み中も寮に居れると思ってたの、いっくん」
「だって、なんかそんな気がしたんすよ!」
「気がしたからって」
「いやだあー、帰りたくないー!ここがいい!麗子さんのごはん食べたい!」
そう言ってじたばたしていると、麗子さんがあら、と入ってきた。
「どうしたの?もうごはんにするわよ?」
「麗子さん~!オレ夏休み間も麗子さんのご飯、食べたい~!」
駄々をこねていると、麗子さんがあらあ、と答えた。
「だったら、夏休みも居たらいいんじゃないかしら?」
「は?」
それどういう意味だ、と思って久坂と高杉に振り返ると、久坂と高杉の二人が麗子さんに向かって人差し指を自分の口にあて、「しーっ」とやっている。
「先輩ら、またオレを騙してたんすね!」
「騙すって人聞きの悪い」
「そうじゃぞ。実際、大抵の寮は退寮せにゃいけん」
「ここは違うんすよね!」
ぷりぷり怒りながら尋ねると二人は「まぁね」と答えた。
「あのね、ここは小さいから大丈夫なのよ」
麗子さんが幾久に笑いながら教えてくれた。
「普通の寮だと、人が多かったり管理が大変とか、あと寮の修理とか点検とか、そういうのするのね。でもこの寮は人数が少ないから、お盆休み以外は居てもいいのよ」
「そうなんだ!じゃオレ帰んなくてもいいんだ!」
夏休み、学校もなくてこの寮で完全に自由な生活ができるなんて夢のようだ。
「ちゃんと帰っちょけよ」
「え?」
「お盆くらいは、帰っちょけ。でないと、ずっと帰れんようになるぞ」
正直、家に帰るのは苦痛でしかないけれど、高杉の言葉は妙に重い雰囲気で、幾久は静かに頷く。
「なに、ほんの一週間もねえんじゃ。そんくらい、えかろうが」
「一週間かぁ」
それでも、ここの快適な暮らしを知ってしまったから、家に帰るのは少し躊躇ってしまう。
「まあ、そんくらいならいいか」
仕方ない、じゃあ父さんにそう言うか、休みとってくれたらいいんだけどな、と幾久が考えていると、突然「おい」と背後から声をかけられた。
「なんっすかいたんすかガタ先輩」
「いたよ、ここにいなけりゃどこにいるんだ」
そう言うも、どこか機嫌がよさそうだ。変だなと思ったけれど、面倒なので関わらないでおく。
「さあ、みんな、ご飯にしましょ。きちんと食べないと夏バテしちゃうから、しっかり食べてね」
麗子さんがそう言うが、毎日おいしいご飯を作ってくれるから、食べないことはありえない。
幾久は日常の当たり前の食事が毎日、こんなにもおいしくて手が込んでいるなんてここに来て知ったのだ。
母親は忙しい、大変、と言いながら出来合いのものやインスタントが多かった。
そういうものだ、とずっと思ってきたけれど、この寮に来てからは毎日が特別な日みたいだ。
おいしいごはんをおなかいっぱい食べて、誰もヒステリーを起こすこともなくて、きちんとした話し合いがあって、邪魔されることがない。
将来よりも、そんな毎日の方がずっと幾久には重要に思えた。でもこんな事でここを選んで、将来、後悔しないだろうか。
やっぱり一度は東京に戻るべきなのかもしれない。
ここにずっと住んでいるから、どうしてもここがいいと思ってしまうけれど。
それともやっぱり、一度戻ると、今みたいに東京がいいとそう思うのだろうか。
(わかんないな)
多分、食事は絶対にこっちのほうが美味しいけれど。
将来って何なんだろう。
自分のためって何なんだろう。
どうするのがいいのかな。
考えればその答えがいつか出るのかな。
編入に間に合うくらいなら。
夏の予定は報国院でも入れている。
このままだと流されてここに居るような形になってしまう。それは良くないことのような気がする。
考えふけっていると、さっと山縣の箸が幾久の皿からおかずのとんかつを一切れつまみあげた。
「いっくん!おかず、取られてるよ!」
しかし幾久はため息をつくだけだ。
「ガタ先輩、いいっすねえ。悩みなさそうで」
「悩みならある」
「なんすか。それ上げますから教えてくださいよ」
とんかつの一切れくらいいいやと思って尋ねると、山縣はよくぞ聞いた!と胸を張った。
「限定のフィギュアをふたつ買うかみっつ買うか」
「もういいです」
やっぱそっち関係だよな、聞くだけ無駄じゃん、と幾久はため息をつく。
「ガタ先輩、進路とか決めたんすか?三年すよね」
「俺?俺は決まってんじゃん、高杉の行くところ!」
「あー……」
うきうきと山縣がそう答えるが、山縣は三年で高杉は二年生だ。
「じゃあ、ハル先輩もう進路決めてんすか?」
「そこそこな」
「な?な?高杉はおめーとはワケが違うんだよ!でどこだ?」
どこだって、今聞くのかと呆れたが、高杉はぼそっと心底嫌そうな声で答えた。
「東大」
「東大?!」
びっくりして幾久が声を上げると、山縣は「お、おう……」と呟く。流石にそこまではと思っていなかったらしい。
「学部は」
「決めちょらん。けど東大じゃ」
「あー……東大……」
明らかにトーンダウンした山縣に、幾久は少し胸がすく。
「よかったっすね教えて貰って」
「おう……」
さっきまであんなにテンションが高かったのに、山縣はがっくりと肩を落とし、もそもそと残った食事を片付けた。
「部屋戻るわ……」
まるで数日徹夜明けのように山縣はふらふらと立ち上がり、夕食はしっかり片付けて、いつものように自室へと戻ったのだった。
「で、ハル先輩、本当に?」
食事を終えて、麗子さんも自宅へ帰り、山縣を除く皆でのんびりとコーヒーを飲んでいる時に幾久は高杉に尋ねた。
高杉の成績ならそりゃ夢ではないだろうけれど、そういった事は聞いたことがない。
「さあのう。進路はまだ決めちょらん」
「え、でもさっき」
「ああ言っちょけば、暫く静かじゃろ」
「確かにそうかもしんないすけど」
高杉を心酔して、報国院に来て、しかも鳳クラスに入って、おまけに御門寮に入った筋金入りの高杉ファンの山縣の事だ、高杉が東大に行くといえば本気で東大を目指しそうだ。
「どうするんすか、ガタ先輩だったら本気で東大に行きそうなんすけど」
「それはそれでエエじゃないんか?」
「そうかもですけど」
どうにもこの雰囲気では高杉は東大ではなさそうっぽい。まだ決まってないだけかもしれないが。
「ま、どっちにしろガタも進路を決める時期じゃろ。来期からは鳳に戻るじゃろうし、進路を東大と言や、先生らも本気でガタを勉強せさる」
「ひどい話っすね」
きっと山縣は高杉の言葉を信じて勉強するだろうに。
「なにが酷いか。ガタは勉強する、寮は静かになる、ええことだらけじゃろうが」
幾久はため息をついた。
「そこが酷いって言ってるんですけど。きっとガタ先輩、本気になりますよ」
山縣は良くも悪くも正直だ。もし今の成績で東大が余裕ならあんなにがっかりはしない。
だとしたら、あの山縣の事だ、きっと今からスケジュールを組んで本気で東大を目指す勉強を始めるに違いない。
「そこが唯一と言ってもエエくらいの、あいつのエエとこじゃな」
ふふんと笑う高杉は楽しそうで、あ、こりゃハル先輩絶対に東大目指してないな、と幾久は気付いた。
当然、そのことを山縣に教えるなんてことはしないが。
(静かになるならまあいいか)
知らないうちに先輩達に影響されていることに、幾久は気付いていなかった。
2016/05/21 up