岡目八目

(1)岡目八目

六月の半ばになった。
一年生にとっては入学して最初の定期テストにあたる前期の中間試験が終わり、生徒は皆一息ついた所だ。
部活動が活発になりはじめるのもこの時期で、校内は一気に賑やかになる。
お客さん気分だった一年生も報国院の学生らしくなり、寮や学校の生活にもすっかり慣れ、寮生は皆兄弟のような関係を築きつつあった。
クラスメイトも自然、寮生同士で固まることが多くなっていたが、その中でもやはり少しはみ出してしまったり、寮は関係なくうまくやっている人も居た。
その中の一人が、乃木幾久。
一年鳩クラス、寮は離れ小島の御門寮に所属する、たった一人の一年生だった。
仲がいいのは同じ一年鳩クラスで報国寮所属の伊藤俊文と恭王寮所属の桂弥太郎。
同じクラスという繋がりしかなかったが、三人はいつも一緒に過ごしていた。
当然、昼食はいつも学食で三人一緒だったのだが。

「あ、幾久、ヤッタ、俺今日学食行かねーから」
いつものように休み時間に教室で喋っていると、伊藤が突然そう言った。
「え?なにトシ、ダイエット中?」
弥太郎が言うと伊藤が「ちげーよ」とむっとして返す。伊藤はやや小太り体形なのを気にしているのだ。
「今日、寮の責任者は会合があんだよ。昼飯もそこで出されるんだとさ」
伊藤の所属は報国寮という一番大きな寮だったが、そこで三年の寮の責任者のサポートみたいなものをやらされている。
伊藤の言葉に幾久が「そういえば」と思い出す。
「ハル先輩が、朝そんな事言ってたな」
ハル、とは幾久の所属する御門寮の責任者でもある高杉呼春の事だ。
「でもトシ一年だろ?なんで代表?」
寮の代表で会合に出るなら、正式な代表が呼ばれるはずだ。その場合、大抵が三年生で、高杉のように二年生でも代表になることは滅多にない。
一年で、しかもまだ入学して二ヶ月程度の伊藤なら尚更ないはずなのに、と不思議に思って幾久が尋ねると、伊藤が肩を落としながら答えた。
「それがさぁ、三年の代表から頼まれてさ。なんか今日、試合があるんだと」
「二年生は?」
三年の代表がいなくても、二年生の副寮長みたいな人がいるはずだが。弥太郎が尋ねると、「そいつも同じく試合だって」と伊藤はふてくされ言った。
ナルホド、と弥太郎は頷く。
「同じ部活ならしゃーないね。で、結果トシってことかぁ」
「まー、会合に行けばハル先輩居るからそれはそれでいーんだけどさあ。面倒でしゃーないわ」
「でも一年なのに任されるってなんか凄くね?」
弥太郎が言うと伊藤は「凄くねえ」とさくっと返す。
「だからさぁ、俺んとこの寮ってお前らんとことは違うんだって。人数多すぎてなにがどうとか把握できてねーし、会合ったって俺に押し付けられるくらいなら、実際たいしたことじゃねーって」
「そうかなあ」
自分の所属する御門寮の責任者である高杉を考えると、そこそこたいしたことのようには思えるのだが。
「ま、どうせ俺なんもわかんねーし。なんかあったらハル先輩に聞けばいいし」
高杉を心酔している伊藤としては、そのほうが重要なのだろう。
「あ、そういや俺も昼、いらないんだった」
突然弥太郎もそう言いだした。
「え?マジで?」
驚き幾久が問い返すと、弥太郎が「うん、マジ、今日だ」と黒板の日付を確認して言う。
「部活の打ち合わせで、昼は部室に行くんだ」
弥太郎は園芸関係の部に所属していて、活動もかなり本気でやっている。ゴールデンウィークには幾久も弥太郎の部活を手伝ったので、そこに所属していることは知っていたが。
「そっかー。トシもヤッタも昼にいないなら、オレぼっちか」
まあ、一人で食事ができないとかそんな事はないけれど、いつも一緒の二人がいないのは少し寂しい。
「寮の先輩んとこ行ったら?」
「おお、それいいじゃん。幾久が呼べば先輩達、絶対来てくれるだろ?」
伊藤と弥太郎が言うが、幾久は首を横に振る。
「やだよ、子供じゃあるまいし。昼メシくらい一人でも食えるよ」
「だよね」
「ま、そうだよな」
「じゃあなんでわざわざんな事言うんだよ」
少しむっとして幾久が言うと、弥太郎が暫く考えて言う。
「なんていうか、イメージ?」
「は?」
「なんかさ、いっくんって一人でからあげ定食とか食ってたら、隣のヤツにからあげ盗られても気づきそうにないっていうか」
「や、さすがにそれは気付くよフツーに」
幾久は首を横に振る。
伊藤と弥太郎は笑っているが、幾久はそこまでぼけてねーよ、と思いつつ、そういえばこの前の夕食のからあげを、ひとつ山縣に盗られていた事を思い出したが当然その事は言わなかった。


昼休みになった。
伊藤と弥太郎は宣言どおり二人ともそれぞれの目的地へ向かっていき、幾久は一人で学食へ向かった。
学食はいつも通りの賑わいだ。学校の生徒がほぼ全員寮生活なので、食事は学食かパンを購入するか、コンビニで買っておくか、になる。
殆どの学生が学食で定食を頼むので、昼の学食はかなり人が多い。
探せば多分、誰か知った人や、同じ寮の先輩がいるかもしれないが、幾久にとって知っている先輩なんて同じ寮の人たちか、恭王寮の桂 雪充くらいしかいない。
一瞬、(そうだ!雪ちゃん先輩がいるかも!)と探しかけたが、そもそも雪充は恭王寮の代表なので当然、高杉や伊藤が出席している会合に出ているはずだった。
(あとは久坂先輩とか?栄人先輩とか?)
考えてみたが、そこまでするほどでもないな、と思って幾久は一人で食事をとることにした。
学食では二種類の『本日のメニュー』とそのほか簡単なメニューがあるが、幾久は『本日のメニュー』のおかずが和食風なほうを選んだ。
この長州市はとにかく魚が新鮮で、学食でも地産池沼を売りにしていて、美味しい魚が食べられる。
今日は白身魚のフライ定食になっていて、何の魚かは判らないがからっとあげられておいしそうだ。
お茶を自分で入れて、幾久は開いていた二人がけの席に腰を下ろした。
「いただきまーす」
手をあわせて早速味噌汁を飲む。報国院の味噌汁は殆どが白味噌で、幾久の好みにはあっていた。
もくもくと食事をしていると、自然と回りの音が耳に入ってくる。
別のクラスの話題が聞こえてくるのは楽しいが、かといって知らない人の話をずっと聞くのもストーカーみたいだな、と幾久は食事をしながら思う。
(ぼっちってけっこう、暇かも)
いつもなら、食事をしながら伊藤や弥太郎と話をして、食事が終わってもだらだらと学食で話をしたり、人が多ければ場所を移動してひなたぼっこしたりしていたが、一人だと当然喋る相手もいない。
別に寂しいというほどでもないが、間が持たない。
誰かが居れば気にしないことが、妙に一人だと気になってしまう。まだ休みは始まったばかりで、目の前にはあまり進んでいない状態のランチがある。
黙って食事をしていると、幾久の目の前にランチプレートを持った人が尋ねた。
「座っていい?」
「あ、ドウゾ」
相席するほど人いたっけな、そう思って顔を上げて幾久は少し驚いた。
というのも、目の前に居たのは。
「児玉君」
「おう」
以前、不良に絡まれていた幾久を助けてくれたことはあるが、どうもあまり幾久にいい感情を持っていないらしい児玉の事が、幾久は少し苦手だ。
その苦手な児玉が、目の前に居る。
「めずらしいじゃん、一人」
「あ、うん。ヤッタは部活で、トシは報国寮の代表で呼ばれてるって」
「え、あいつ一年なのに代表なの?」
少し驚いたように児玉が顔を上げる。やはり相変わらず雪充がいないと目つきが悪い。
「なんか二年も三年も、代表は試合で留守らしくて」
「あー、なるほど」
そう言うと児玉は「いただきます」とぱちんと手を合わせてから食事を始める。
児玉とふたりきりなんて初めてで、幾久はやや緊張してしまう。というのも、児玉にはあまり幾久はいい印象を抱かれていないようだからだ。
いつもなら児玉と同じ寮に所属している弥太郎が居るので深く考えたことはなかったが、あまり自分のことを好きではない相手と一緒というのも緊張する。
だけど児玉は全く気にした様子はなく、ばくばくと豪快にランチを食べている。
なんだか前と印象が違うよな、と幾久は思った。
食事をしている児玉の胸元には、少し緩めたネクタイが見える。
金色のそれは、御門寮の二年生がしているのと同じ、報国院では所属する生徒の一割程度しか居ない、選ばれたクラスの特別な色のネクタイだ。
何も知らないときはなんとも思わなかったけれど、この報国院に所属して、鳳クラスの意味が判ってきた今となっては、確かになんだか特別な雰囲気があるようにも見えてくる。
児玉のネクタイが緩んでいることになんとなく気が緩んで、幾久は尋ねた。
「児玉君ってさ、」
「タマでいい。同じ一年だろ」
「……タマ君って」
「君とかつけんなよ。かえって間抜けじゃん」
「なんか呼び捨てしづらいよ」
そんなに親しくもないのに、しかも助けて貰ったこともあるのに猫みたいに呼び捨てなんて。
「みんなそうだからそうすれば」
確かに、児玉がそれでいいなら、それでいいのか。
「じゃあ、タマって呼ぶ。オレも呼び捨てでいーよ」
「おお」
「児玉……タマってそんなだっけ?」
「何が」
幾久の印象では、こんな雑な人の印象ではなかったのだが。
「もっと丁寧な人っぽかったけど」
「雪ちゃん先輩いねーしな、今」
ああ、そういうことね、と幾久は納得した。
「なに?もっと丁寧に接しろって?」
「や、そんなんどうでもいいけど」
「気にしないんだ」
へえ、と児玉が言うと幾久はだって、と説明した。
「うちの寮、ひどいのがいるから。態度が全く違う先輩」
「知ってる。山縣先輩だろ」
「ああ、やっぱ有名なんだ」
山縣は高杉を心酔しまくりの尊敬しまくりで、高杉からは嫌われているのに全く気にしていない。
高杉のいう事はなんでも従うが、それ以外に対する態度は不遜そのものだ。
しかし幾久は一緒に暮らしているうちに『そういうもんだ』と慣れてしまった。
「っていうか、雪ちゃん先輩と一緒だろ」
「あ、そういやそうか」
桂 雪充と山縣は同じ三年生で、山縣は以前鳳クラスに所属していたし、雪充は寮がこの前まで御門寮だったと聞いているから、確かにクラスも寮も同じだったということになる。
「なんかイメージ違いすぎて、あの二人が同じクラスで同じ寮だったって思えない」
大人で優しくて、頼りがいがあって後輩思いな桂 雪充とその真逆と言ってもいいくらいの山縣が、同じクラスで同じ寮という繋がりが全く想像できない。
「雪ちゃん先輩はたまに山縣先輩の事言ってるよ」
「へえ、そうなんだ。オレ、ガタ先輩のそういうの聞いたことないや」
山縣の会話なんてインターネットのスラングやアニメや漫画の事ばかりで、クラスメイトがどうとかなんて全く知らない。
(判るのは時山先輩のことくらいか)
山縣と関わりのある三年生なんて時山しか知らないし、実際の時山は幾久を見かけてもスルーなので学校でそう話すこともない。
「幾久はそういうの、気にしねーの?」
「そういうの、って?」
「人によって態度が違うとか。そういうの嫌がるの居るじゃん、媚びてるみたいって」
「いやー、どうなんだろ。ガタ先輩のアレって、異常っちゃ異常だけど、ガタ先輩なりにルールみたいなものがあるみたいだし。ガタ先輩って『ハル先輩』と『それ以外』しかカテゴライズしてないし」
それに、山縣の態度は高杉に対して『媚びている』という風ではない。あくまで自分がそうしたいからそうしているだけであって、だから高杉が嫌がっていても気にしないのだ。
「タマはそういうの気になるんだ?」
「いや、……どうだろ。俺はそんな気にしたつもりないんだけど」
なにかあるのかな、と一瞬思ったが、幾久は以前児玉に助けられた時の事を思い出した。
「そういやオレ、ネクタイ取られたじゃん、前」
「ああ、」
中学時代にヤンチャだったという伊藤と仲良くしていたら、その伊藤の虎の威を借りていると思われていちゃもんをつけられた結果、ネクタイを他校の生徒に取られてしまったのだ。
「あのときは助かった。ありがとう」
「や、それはもう終わった事じゃん」
ネクタイを取られてからまれていた幾久を助けてくれたのは児玉だった。その後も、学校に戻って伊藤にいろいろ言ったり、寮の余っているネクタイを用意してくれたのも児玉だ。
「そんとき、オレも言われたんだよな。トシに擦り寄ってるってさ」
幾久は伊藤のヤンチャ時代なんか全く知らないので言いがかりも甚だしいのだが、他人からはそう見えてしまったらしい。
「だからさ、なんていうか。そういう風に見るやつってなんでもそうにしか見てないんじゃないのかな。他人から見たらガタ先輩の態度だって、ハル先輩に擦り寄ってるって見えるのかもしれないし」
幾久は山縣がどういう意図でああいった行動に出ているのかが判るので気にしないが、そういう風に見る人から見れば、まるで高杉に擦り寄っている風にしか見えないのだろう。
「こうしてタマと話してたって、鳩のオレが鳳に擦り寄ってるって見るやつは見るんじゃね?」
そう幾久が言うと、児玉は「ふっ」と笑った。
「―――――幾久、次は鷹確実なんだろ?」
「わかんないけど。先輩らは今の調子ならねって言ってた」
正直、鳳のレベルなんか知らなかったし、鳳を落ちた人や鷹を狙って落ちた人が入試後も必死になって勉強しているなんて思いもしなかった幾久は、当然入試の後に必死になってまで勉強はしていなかった。
中間試験前は当然真面目にやりはしたけれど、良くも悪くも想定内、といった風だった。
「次で鳳狙ってんのか?」
定期テストは中間と期末の二度あって、その結果でクラスも寮も決まる。寮は、クラスが上であればあるほど、希望が通りやすいというだけで、頻繁に変わるわけではないが、クラスはそうじゃない。
結果次第で次の期から、どのクラスになるのか決まってしまう。
「先輩達がそういった事を言わないってところを見ると、今のオレの成績じゃ鳳は無理って思われてるんだなとは感じるよ」
さすがにいくら地方と舐めていた幾久でも、この市内全域でトップクラスに入るというのは難しい。
その準備もなにもしていなかったから尚更だ。
「幾久から見て、つか、正直、東京から見たこの学校のレベルってどう?」
児玉に尋ねられ、幾久は首をかしげた。
「東京の全部を知ってるわけじゃないし」
「でもここの連中よりは知ってるだろ?」
肩をすくめて、児玉はあたりをちら、と見渡した。
この学校に来るのは当然地元の子が殆どで、県外の子もいるにはいたが、それでも近県の出身ばかりだ。
「長州市にも塾くらいあるけどさ、やっぱ地方ってレベル落ちると思うんだよな。体感だけど」
そういわれても、こっちに来てから塾に行っていない幾久としては、そのレベルがよく判らない。
「正直、オレにはよく判らないけど、鳳はかなりレベルは高いと思う」
「やっぱそうか」
希望すれば別のクラスであっても、鳳クラスの授業は受けることが出来る。
そこで幾久は鳳の授業を受けたことがあるのだが、びっくりするスピードだった。
「っていうか、授業内容が塾みたいだよ。オレも高校はここしか知らないから、なにをどうとも言えないんだけど」
ただ、理解していなければ絶対についていけないし、それについていくのも大変だ。つまりは選ばれてエリート教育とか言っているけれど、予習、復習、理解が当然の上での授業しかしていない。おまけにスピードが速い。
「正直、塾でもないのに学校がこれって大変だなって思うよ。普通は学校で授業で、塾で一気にペース上げるとか、コツを教わったり理解度上げたりっていう風なのにここは学校がそうだから」
塾みたいな先生というのは、勉強としてはありがたいのかもしれないが、毎日朝からずっとあれでは神経が磨り減りそうだ。必死で勉強していても、ついていくのは大変な気がする。
「タマはさ、地方っての気にするけど学力ってさ、本屋行けば判るじゃん。大学の入試問題あるし」
その気になればそういったものはいくらでも手に入る。有名な塾であればテキストだって売っている。
「鳳は、目指しているレベルが高いとは思うよ。東大とか京大、けっこう出してるみたいじゃん」
「そうなんだよな。正直、ついてくのしんどい」
児玉の意外な愚痴に、幾久は驚いた。
あんなにも鳳を愛して、誇りを持っている児玉の口からそんな言葉が出るとは思わなかったからだ。
「タマって、そういう大学狙ってるんじゃないの?」
こんな地方で鳳クラスを狙うという事は、まず間違いなく進路がそういったいわゆる旧帝大レベルを目指しているのだと思っていた。
幾久も、だから東京に戻ろうと考えていて、今まさにその進路に悩んでいる真っ最中だというのに。
「ぶっちゃけ俺、大学なんか、正直どうでもいいっていうか。考えてなかったというか」
「えっ?鳳なのに?」
意外すぎる、と幾久は驚いて目を見開いた。
「てっきり、良い大学に行きたいから頑張ってるのかと思ってた」
「そりゃ、良い大学に行けるに越したことはねーけど、正直全然考えてなくて。だから今モチベーション下がっている最中っていうか」
成績あんま良くないんだ、と児玉が言う。
あんなにも鳳クラスにこだわっていたのは、いい大学に行く為にレベルの高い勉強をしたいから、という事ではない、と判って幾久はまだ驚いている。
「じゃあ、タマって、なんでそんなに鳳がいいの?」
尋ねた幾久に、児玉が答える。
「憧れてたから」
確かに、この地域でトップクラスと言うなら憧れるのも判るけれど。
「それって進学クラスだから?」
「違う」
児玉は首を横に振る。
「じゃあ、なんでそんなに鳳が好きなの」
「すっげえ憧れた人が報国院で、鳳で、御門寮だったから」
鳳クラス、御門寮、憧れ。
そんな人は一人しか思い当たらない。
「雪ちゃん先輩?」
児玉は首を横に振った。
「違う。確かに似てるし、いまは雪ちゃん先輩みたいなのも目指してるけど、元々はそうじゃなかった」
「へぇ」
思いもしなかった事を知ってしまうと、急に児玉に興味が湧いた。
二人とも食事はとっくに終わって、休み時間はまだ余裕で残っている。
「どうせ暇だろ?俺もだけど」
まあね、と幾久が頷くと、児玉は楽しそうに笑った。
「じゃ、話すっか。コーヒー取ってくるけど幾久は?」
「……いる」
児玉は「了解」と言うと、食堂にあるコーヒーサーバーから、自分と幾久の分のコーヒーを持ってきた。


食堂は大分生徒が減り、おしゃべりや休憩目的の生徒が残っている程度だった。
幾久と児玉の周りの席は開いていて、皆、それぞれ好きな場所でのんびりとくつろいでいる。
児玉が持ってきたのは食堂においてある、好きに飲んで良いコーヒーでけっこう生徒には人気だった。
多分だけど、高杉の知り合いだという『マスク・ド・カフェ』のあの元レスラーだというマスクマンの店長から仕入れているのだろう。あの店の安いコーヒーと同じ味だ。
コーヒーを飲みながら、児玉が話を始めた。
「幼稚園の頃なんだけどさ、俺、すっげ泣き虫でさ。なんかすっごいからかわれてたんだよ」
「へえ」
児玉の目つきの悪さや、いきなりかばんを投げつけるような行動力からは考えられないが、子供の頃はそうだったのだろう。
「でさ、今思えばそうたいした事じゃないんだけど、子供の頃ってどうでもいいことめちゃめちゃ気にするじゃん」
「うん」
「で、その幼稚園にさ、習字やってるやつがいて。で、字も書けるし、漢字で名前が書けるのを自慢してたのな、そいつ」
「へえ」
幼稚園で漢字が書けるのは、中々ではないだろうか。
「俺は自分の名前を漢字で書けなくて、そいつに馬鹿にされたわけ。自分の名前なのに漢字で書けないのかって」
「でも幼稚園だったら、漢字なんか判らないじゃん」
幾久が言うと児玉も、だよな、と言う。
「今ならそう思うけど、その頃はそうは思わないんだよな。馬鹿にされてすっげー悲しくてさ」
そういえば、と幾久は思いつく。
「タマって、名前なんだっけ?」
児玉、という苗字は知っているがそういえば名前は聞いた事がない。
児玉はペンと手帳をポケットから取り出し、手帳の開いたページに「無」と「一」と書いた。
「むいち……?」
首を傾げながら幾久が尋ねると、児玉が言った。
「むいつ、って読むんだよ。俺の名前」
「無一?なんかかっこいい」
「まぁな」
自分でも気に入っているのだろう。児玉は少し嬉しそうだ。
「でも幼稚園児には『無』がすげえ難しくてさ」
「そうだろうね」
簡単な名前ならともかく、幼稚園児にその文字は流石にハードルが高いのではないだろうか。
「幼稚園の帰り間際まで、名前もかけない馬鹿って言われて悔しくて泣いてたんだよ。迎えに来た親も困ったんだろうな、買い物してなだめようとしたのか商店街を通ってたんだけど、泣いているうちに迷子になってさ」
いくら地元とはいえ、幼稚園児が知らない道路に行ってしまってはパニックになるのは当たり前だろう。
「慌てて知っている道を探したけど、もう夢中で探して走りまわったせいで、自分がどこに居るのかもわかんなくて。で、すっころんでめそめそ泣いてたらさ。高校生のお兄さんが声かけてきたんだよ」
「へえ」
幼稚園児の児玉からしてみたら、高校生のお兄さんなんて随分心強かっただろう。
「どうしたの、怪我してるの?って。で、更に怪我の痛さに気がついてまたわんわん泣いてたら、そのお兄さんが俺を抱えて、あるでっかい家に入ってったんだ」
「そこが御門寮だった、ってわけ?」
「いや、それが違うんだけど」
まあ聞けよ、と児玉が続ける。
「気がついたらなんかすげえ日本家屋でさ。覚えてるのが、芝生?のすごい綺麗な緑と、こう、写真集とかテレビで見るみたいな日本家屋っての?幼稚園児だったってのもあるかもだけど、なんかすげー!でけーって思ったの覚えてる」
ますます御門寮っぽいのだが、児玉はそうじゃないというので幾久は黙って続きを聞く。
「そこにはお兄さんと同じくらいのお姉さんも居てさ、足の怪我を手当てしてくれて。他にもなんかお兄さんが居て、賑やかだったのは覚えてる。で、名前とか、住所とかいろいろ尋ねられたと思うんだけど、名前しか言えなかったんじゃないのかな。幼稚園の帰りだったから、ひょっとしたら幼稚園に連絡入れてくれたのかもしんないけど。で、そのうち助けてくれたお兄さんにいろいろ聞かれて、名前が書けなくて馬鹿にされているって言ったら一緒に練習しようか、って言われて」
「へえ」
「幼稚園のかばんかなんかに名前が漢字であったんだろうな、俺が『むいつ』の『無』の漢字が書けないってすぐ判ったみたいでさ。こう、幼稚園児にもわかる様な説明をしてくれて」
「へー、それってなんか凄い」
幼稚園児に『無』を書ける様に教えるなんて、なかなか出来ることじゃないと思う。
「書き順とかはぜんぜん違うんだけど、それでも間違えずにそれっぽい漢字は書けるようになったからさ」
「凄い。いいお兄さんじゃん」
「だろだろ?で、親が迎えに来てくれて、ばいばいしておしまい。それ以来、そのお兄さんみたいになりたいって思ってたんだけどさ。でかくなってびっくりしたのがそのお兄さん、報国院の鳳クラスだったわけだ」
「なるほど」
「お兄さんみたいになりたいって無邪気に言ってたら親も『あの人はとっても頭の良いお兄さんだから、いっぱい勉強しないと同じようになれないのよ』とか言うからけっこう真面目にやってたわけ。でもそのうち事実が見えてきたらこう、さーっと引くんだよな」
「ハハ」
幼い児玉が、報国院の鳳レベルを理解できるようになった時のその混乱が手に取るように幾久にも伝わってきて面白かった。自分も同じような経験があるからだ。
「でも、助けてくれた時のあの格好良さっていうのがどうしても忘れられなくて。ただ、」
「ただ?」
児玉が急に声のトーンを落とす。
「俺、けっこう記憶力いい方なんだよ。だからお兄さんの顔もなんとなくだけど覚えてるし、報国院の制服とか、ネクタイの色とか、略綬とか覚えてんだけど」
「ど?」
「―――御門寮のはずなのに、御門寮じゃなかった」
「え?」
意味が判らずに幾久が首をかしげていると、児玉がつまり、と説明した。
「いくら幼稚園児の足でも、商店街から御門寮はないわけだよ。遠いじゃん」
この学校の近くには地元の商店街がある。しかし、そこから御門寮となると、道を覚えていたとしても、幼稚園児にはかなりの距離になるだろう。
「俺の感覚だと、せいぜい行って恭王寮だよ。でもその近所に、あんなお屋敷の報国院の寮ってないんだよな」
「じゃあ、ひょっとしてそのお兄さんの家だったとか?」
お姉さんがいた、という事はそのお兄さんと兄弟という可能性もある。
「っていうのも考えたけど、なんか雰囲気が違ったし。そもそも、高校生男子が何人も『ただいま』って帰ってくるって、ちょっと変だよな」
「……確かに」
お兄さんとお姉さんだけなら、兄弟で、たまたま家に居た『鳳のお兄さん』が助けてくれたのかもしれないが、児玉の話によると、あと数人『お兄さん』は居たはずだという。
「全員、『ただいまー』って帰ってきて、あれ、そのコ誰?なんとかの友達?みたいなことを話してたのは覚えてる。でも俺がビビッてお兄さんにしがみついたままだったからさ、その人たちも近づいてこなくって。ずっとお兄さんと一緒の部屋で、名前を漢字で書く練習してたから」
だから余計にネクタイと、丁度見える略綬がやたら目について覚えていた、と児玉は言う。
「まさかここまで難関とは思ってなかったし」
「でも、幼稚園の時のその一念で鳳だろ?凄いよ」
いくら幼稚園の時に感激したからといって、この年齢になるまでそれを目標にやっていくなんて、素直に凄いと幾久は思う。
「けど、だからそれで目標がないっていうか」
「あ」
それでか、と幾久は納得した。つまり、児玉にとっての目標は『助けてくれたお兄さん』みたいに報国院に入学し、鳳クラスに所属して、御門寮に入る事なのだが、いざ鳳クラスになってしまうと今度はそれについていくだけのモチベーションがない、という事だ。
「あのお兄さんには憧れてたし、実際自分の目標にもしていたから、受験勉強はすっげ頑張れたけど、じゃあいざそうなったら何の為にしてるんだろってちょっと思ってさ」
「それって燃え尽き症候群、ってやつじゃないの」
大学生でもそうなってしまう人はけっこう存在するとか、幾久の母親がそんなことを言っていた気がする。
「そうなのかもな。受かるまでは必死だったし。それに、あのお屋敷の場所がどこなのか、正直いまだにわかんなくてさ。まさか全部夢ってことはないと思うけど、じゃあ一体どこなんだっていうね」
「……どこなんだろう」
「それが判らないんだよなぁ」
児玉がため息をついて言う。
「子供の頃だから、なにかの記憶と混ざってるのかもしれないし。肝心の場所がわからないんじゃどうしようもない」
心底がっかりしている様子の児玉に、幾久はなんとかその寮を探してあげたいな、と思った。
もし幾久がそんな風に憧れた人が居たなら、きっとまた会いたいしお礼も言いたいと思うだろう。
「いつか思い出すかもね」
「っていうか、そこまで思い出したのが、ぶっちゃけ最近っていうか」
「え?」
「そのお兄さんが報国院の鳳クラスって言うのは親に聞いてたから知ってたんだけど、流石に略綬とかはまったく忘れてたわけ。親もそこまで見てないし」
略綬とは、制服のジャケットについている小さなタイピンのようなバッジだ。
本来は勲章をつけるのだが、式典ではない場合に勲章ではなく略綬をつける。
報国院の制服は軍服をモチーフにしているので軍関係になじみのあるものが多く採用されていて、生徒は皆、学年やクラス、所属寮や部活などが判るようにジャケットに略綬と言うバッジをつけている。
「じゃあ、なんで急に?」
「報国院の鳳ってのは判ってたからさ、ここの学校説明会に中坊の時に参加したわけ。幾久説明会、来たことねえだろ?」
幾久は頷く。報国院の学校説明会どころか、入試を受けるまで報国院という学校の存在すら知らなかったレベルだったからだ。
「ここの説明会がまたけっこう凄くてさ。千鳥は無料で紹介されるのに、鳩から上の説明は会費制なわけ」
「うわー……」
「年に何回かあってさ。で、俺は報国院の鳳目当てだから親も許してくれて、参加して、そん時に担当だった在校生が雪ちゃん先輩」
「ああ」
それで、と幾久は納得した。
「雪ちゃん先輩はそん時二年生で、鳳のネクタイに御門寮の略綬つけてたわけ。で、ばーっと思い出してさ。あ!あのお兄さんのバッジってこれだった!って。雪ちゃん先輩がそのお兄さんとなんとなく、雰囲気似てたっていうのもあるんだろうけど」
「雪ちゃん先輩のお兄さんとかっていうのは」
児玉は首を横に振る。
「雪ちゃん先輩、年が離れたお姉さんしかいなくって。親戚にもそんな人いないって」
「そっか。じゃあ偶然なのか」
雰囲気が似ているなら、雪充の兄弟や親戚ではないかと思ったが、そんな単純ではなかったらしい。
「学校説明会って、最初に担当が決まったらほぼ同じ生徒が面倒見てくれるんだよ」
「親は?先生がそういうのするんじゃないの?」
学校説明会というくらいなら、まず親に色々説明しそうな気がするのだが。幾久が問いかけると児玉が頷く。
「親には先生が学校の方針とか説明するから、講堂とかでまとめて説明会みたいなのやって、中学生は校内を見てまわったり、部活にちょっとお邪魔したりすんの。けっこう面白かった」
「へえ」
「最初雪ちゃん先輩見たとき驚いてさあ。なんか雰囲気?みたいなの似てるから。同じネクタイで、同じ略綬だからそう脳内で判断したのかもしれないし」
「そのお兄さんの顔って、タマ覚えてないの?」
「うーん、ぼんやりっていうか。イメージしか」
「だよね」
幼稚園の頃に一瞬あっただけの人なんて忘れていてもおかしくない。
出来事や制服やネクタイの色を覚えているだけで、どれだけ児玉にとってそれが印象深い出来事だったのかが判る。
「で、雪ちゃん先輩が色々案内してくれたんだけどさ。あのお兄さんとイメージがだぶって、もうこれ絶対に鳳で決まりだろ、御門寮に入るって決心してさ」
いつも雪充に懐いている児玉の様子を考えると、その時の事なんて手に取るように幾久には想像できた。
「で、無事鳳に入ったって訳だ」
「なんとかって所だよ。けど、鳳に入ったはいいけど御門寮じゃなかったし」
「ゴメン」
なんとなく、幾久は以前の事を思い出してしまい児玉に謝った。
「や、それはいいって。恭王寮でがっかりしたけど、雪ちゃん先輩はそこに居たわけだから」
「そこはなんか、良かったね」
「おお。マジでホント。だから鳳にはずっと居てーけど、結果がなあ」
そこまで話したところで、昼休みの終了を告げる前の予鈴が鳴った。
「お、けっこうな時間たってんな」
「だね。教室に戻らないと」
二人は立ち上がり、ランチプレートを持ってカウンターへと下げた。
ごちそうさまでしたーと告げて、食堂を出る。
「じゃーな、幾久。今日は悪かったな」
「別にどってことないよ」
「そっか」
そう言うと児玉は笑い、ポケットに手を入れると一年の鳳のクラスへと向かったのだった。



2016/04/03 up