夜の踊り子[番外編]

このお話は「夜の踊り子」の話中、「恭王寮」での桂 雪充・桂 弥太郎・児玉の三人のお話になります

桂 雪充の憂鬱

報国院から歩いて十分程度の川沿いには、古くから続く武家屋敷を中心に、純和風の邸宅が建ち並ぶ。

このあたりには条例があり、新しい家を建てる場合であっても景観を崩してはならず、新しくても和風モダンの外観でなければならなかった。
そんな中に、御門寮ほど大きくはないがそれでも普通の邸宅にしては立派過ぎるだろう和風の門があった。
門の大きな表札には『恭王寮』とある。
中に入れば庭は純和風、しかしどしんと構えた邸宅はレンガと漆喰で作られた英国風であった。

「へえ、まだ気になるの?」

午後のおだやかなお茶の時間に、恭王寮の提督である三年鳳の桂雪充(かつら ゆきみつ)は、驚いた様子もなくそう言った。
「そーそー、雪ちゃん先輩はああ言ってたけど、なんか気にはしてたっぽいっていうか」
雪充の向かいでそう話しているのは、恭王寮の一年生、桂弥太郎(かつら やたろう)だ。親しい関係のものは皆『ヤッタ』というあだ名で呼んでいる。雪充と同じ『桂』という苗字ではあるが兄弟ではない。
一年の鳩クラスで、『いっくん』こと乃木幾久の友人だ。
その雪充の隣でむっとしてお茶を飲んでいるのは弥太郎、幾久と同じ一年生だが鳳クラスの児玉無一こだま むいつ
むっとしているのは、児玉にとって幾久が鬼門のような存在だからだ。
昔から報国院の鳳クラス、御門寮にあこがれていた児玉にとって、鳳クラスでもない、しかも鷹でもない鳩クラスなのに御門寮にしかも一年生でたった一人だけしか所属していない幾久の存在は複雑なものがある。
そんな児玉をよく知っている弥太郎は楽しそうに言う。
「あータマ、また眉間が凄いことに」
弥太郎は幾久の事を話題に出すとむっとする児玉が楽しくて仕方がないのだ。
児玉が懐いている雪充の前では必死に猫をかぶっているのに、こうして幾久の事を出すと化けの皮が脱げてしまう。
といっても雪充はそんなことをとっくに知っているし、あえて隠す必要もないのに児玉はなぜか、必死に『お行儀良く』する。
どうも児玉には『憧れの鳳クラス、御門寮の生徒』みたいな理想があり、どうしてもそうなりたいらしい。
その理想に今の所一番近いのが、三年の桂雪充、ということだった。


今日の話題は、昼休みに幾久が話していた、御門寮に真夜中に出たという人魂についてだった。
この前まで御門寮に所属していた雪充は御門寮の事はなんでも知っている。
だから、幾久が気にしていた人魂の正体だって、実際は三年の時山であることも判っていたけれど、あえてそれはごまかした。
幾久のあの様子だと知らない、ということは誰も教えていないのだから、わざわざ教える必要はない。
それに必要以上にびびりまくっている、という風でもなかったのでそのうち誰かが教えるだろう。
(というより、面倒なんだろうな)
御門寮の後輩たちの顔を雪充は思い出し、心の中でため息をつく。
あの三人ときたら問題ばかりおこして、去年まで雪充がまとめるのに苦労したのだ。
だからあの御門寮に一年生が入らないと聞いて少しほっとしていたのに、急に乃木幾久という一年生が入寮してしまい、一時はどうなることかと思ったが案外うまくやっているようで雪充は安心した。
入寮する幾久自身も、東京から全く誰も知らない状態で出てきて、しかも寮に一人も一年生が居ない状態でどうなるだろうかと思ったが杞憂だったらしい。
笑っているのが出ていたらしく、弥太郎が雪充に尋ねた。
「雪ちゃん先輩、なんで笑ってんすか?タマが変顔してるから?」
なんだと、と言う風に児玉が弥太郎を睨む。
おとなしくしていても児玉はこう見えてなかなか激しい性格なので、こういう所はひやひやする。
ただ、弥太郎はそんな児玉を知っているのに全く気にする様子はないのだが。
「違うよ。いっくんがヤッタとうまくやっているようで安心したんだよ」
雪充の言葉に何を今更、と弥太郎が首をかしげる。
もう五月も末になっているし、弥太郎は幾久とゴールデンウィークの間も遊んだので、すっかり昔なじみのような感じだ。
「いっくんは大丈夫!だってすっげー面白いし、いいやつだし」
弥太郎の言葉に雪充も頷く。
(そうでなきゃ、あの寮に居られないよなぁ)
二年生の鳳に属している高杉、久坂、吉田の三人はとにかく手をやく。
そうは見えないが乱暴ものでマイペースで絶対に自分の意見を曲げることはない。
山縣は、関わらなければ問題ないのだが、自分勝手な言葉や生活が妙に障られてしまうらしく、勝手に喧嘩を売っては山縣に馬鹿にされ、の繰り返しで寮を出て行く人も少なくなかった。
つまり全員が全員、チームワークというものに無縁なのだ。寮生活ともなれば絶対にそれが必要なのに、あいつらにはそれがない。それでもうまく行っているのは全員の頭がいいからだ。
成績、という意味でなく、あの寮の全員はとにかく頭がすごく回る。雪充のように親しい人ならそれは楽なこともあったが、凡人にはそれが理解できない。
だから正直、おせじにも頭の回転が速そうには見えない、性格も一本気でもなさそうな、悪い意味でも坊ちゃんくさい幾久が、鳳クラスばかりが所属している御門寮でコンプレックスを刺激されずにうまくやっていけるのか、と心配はしていた。
いいやつ、と弥太郎は評したが、実際にそうなのだろう。
でなければあの曲者ぞろいの御門寮でやっていけるはずがない。
大抵が一ヶ月もしないうちに出て行ってしまうのだから。

「でもさー、本当に大丈夫かなあ。御門寮ってなんか古いんでしょ?」
まだ人魂の心配をしている弥太郎に雪充は「大丈夫だって」と苦笑する。
なぜなら、御門寮の人魂の正体は時山と山縣なのだから、心配はいらない。
心配があるとしたら、時山が幾久をからかって幾久を脅かして、びっくりした幾久が池にでも落ちてしまわないかという事くらいだ。
「寮は古いけど、中は改築してあるからそんなに変わらないよ」
むしろ改築した分だけうちより新しいかもね、と雪充が言うと弥太郎が言う。
「ああ、御門寮ってなんか気になるんだよなー。すっげえ広いらしいし。いっくんに写真と動画は見せてもらったんだけど」
弥太郎の言葉に、児玉がびくんと肩を揺らす。
「へえ、動画?」
児玉のためにもそう雪充がきいてやると、弥太郎がうん、と頷いた。
「広い広いって言うけど、どんくらい広いか、地図で見てもいまいちわかんないじゃないっすか。で、それ言ったらいっくんが動画とってきてくれて。庭とか、寮の中とか。ほんとすげー広いんすね、あそこ」
庭だけで散歩できる、と弥太郎が感心するが確かにあの寮はとても広い。
とても寮母の麗子さん一人で管理できるものじゃない。だから余計に、寮の生徒達には自制が必要になる。
「タマも見せてもらったらいいのに」
「……」
それができればとっくにそうしているし、できないからわざと弥太郎も児玉にそう言うのだ。
「別に見なくてもいいんじゃないかな」
さすがに児玉がどんなに御門寮に入りたいか知っている雪充が助け舟を出した。
「だってタマはどうせ御門寮に入るんだろ?だったらその時にじっくり見たらいいよ」
雪充の言葉に児玉が嬉しそうな顔になる。だが、その表情は少し怖い。
元々、そんなにやわらかいつくりの顔じゃないから、まるで笑うとシベリアンハスキーが喜んでいるような印象になってしまうのだ。
「タマ。そのかお怖えー」
遠慮のない弥太郎がそう言ってげらげら笑い、途端児玉は表情を固くした。
(ああ、もう)
本当に、弥太郎のこういう所はどうにかならないだろうか。と思っても性格をよく知っている雪充はどうにもならないよな、と自分で納得するしかなかった。



お茶の時間を終えると、弥太郎が雪充に勉強を見て欲しいと言い出した。幾久が先輩達に鷹は入れると聞いて自分もやる気になったらしい。
「いいよ。どうせタマの勉強を見るつもりだったし」
毎日雪充は児玉に頼まれて勉強をみていたし、その間自分も勉強をしていたのでここで別に弥太郎が増えてもどうということはない。
今回の試験は一年生にとっては入学以来最初の定期テストになる。
このテストと、期末の結果で夏休み前には次の中期にどのクラスに入るかが決まる。
入学は出来てもクラスが成績順で変わるのがこの報国院という学校のシステムなので、入学して希望していたクラスじゃなかった、という生徒も多い。
児玉は最初から鳳狙いで入ったので希望通りだし、弥太郎は鳩ならいいか、という、報国院に入るときに一番多いタイプで入っている。
お茶を終え、応接室はそのまま勉強部屋に変わる。
以前、幾久が通されたのもこの部屋だ。
応接室と言っても誰かが来る事はないし、試験前は他寮に行くのも基本禁止なので誰も来る事はない。
最近は児玉がずっと雪充に勉強を見てもらっているので勉強部屋のようになっている。
「なんかすっかり勉強部屋になっちゃいましたね」
弥太郎が言うと雪充もそうだね、と答える。
普通に見れば英国風のカフェにも見える空間で、しかも調度品も部屋によく合う、いいものを使っている。
「カフェで勉強してるみたいで、なんか意識高いって気がするよね」
「邪魔するなら部屋もどれよ」
児玉の言葉にごめんごめん、と弥太郎が謝る。
「でも、どうして急に?」
雪充が尋ねた。
「ヤッタ、全く勉強してなかったのに。いっくんに刺激うけた?」
「そうなんす」
素直に弥太郎はそう答えるが、児玉はあまり良い顔をしない。
自分の為に勉強を必死に頑張っている児玉にしてみたら、友達が鷹にいくっぽいから自分も、という考え方が甘えているように思えるからだ。
「なんにせよ、勉強するのは良い事だけど」
それにしたって元々勉強するのが好きじゃないのにどうしてと雪充が尋ねると、弥太郎が言った。
「うーん。なんかいっくんが嫌がってたんすよね、別れるの。俺らつるんでるんすけど、トシはまず鷹無理っすよね」
トシ、とは同じクラスの伊藤俊文の事だ。幾久と弥太郎、伊藤の三人はいつも一緒に過ごしていた。だが、今期のテストで幾久が鷹に行くことが決まれば一緒のクラスではなくなる。
「で、俺もちょっと無理っぽい」
「そこは正直なんだね」
でもどうして?と再び雪充が尋ねた。今回が無理なら、照準を中期のテストに合わせれば良い。
そうそれば夏休み間も勉強の目的が出来るし焦る必要もない。
入試から入学して、希望のクラスに入れずに必死で勉強している一年生は多い。
今回急に思い立っても少し弥太郎には分が悪いはずだが。
「無理でも、『俺も鷹行くつもり』って言っとかないと、いっくん、わざと鳩に戻りそうで」
「ああ、確かに」
それは判るな、と雪充も思った。
「元々いっくんって報国院来たくて来たわけじゃないし、ひょっとしたら今期で辞めて東京に戻るかもしれないわけじゃないっすか。で、もし俺とかが、『鳩でいいし』って思ってて、いっくんだけ鷹になったら、なんか『これなら東京に帰るか』とか思いそうなんすよね」
弥太郎の言葉に、雪充も確かにそうかもな、と考える。希望した学校でもない所に来て、しかも慣れない寮生活、寮と言ってもあの御門でメンバーもアレな連中ばかりでは、戻りたくなっても当然だろう。
「でも、いっくんは東京に戻るって決めたわけじゃないんだろう?」
「うーん、そのあたり全然話さないんすよ。なんか聞くのもなーって内容だし」
「だよねぇ」
「多分、そこまで報国院が嫌とかは思っていなさそうなんすけど、わかんないじゃないっすか」
「まあ、そうだね」
「だったら、『俺も鷹目指してんだぜ』って勉強してたら、絶対に安心して鷹に行くと思うんす」
確かに慣れない場所でできた友人は貴重だ。
そんな友人と離れ離れになるなら、東京に戻るとか、鳩のままでいるとかは幾久はしそうな雰囲気があった。
「いっくん、進路がどうこう言う割には、あんま勉強にガツガツしてないのがちょっと不思議なんすよね」
進路が気になって東京に戻る、という目的の持主なら、もっと必死感があっていいはずなのに、どうものんびりした雰囲気がある。
「なんか、東京の大学にっての、いっくんの意思なんかな、本当に」
不思議がる弥太郎に、そうじゃないだろうと雪充は思う。
きっとあの雰囲気で、一人っ子で、あんな事を言うなら親が希望しているに違いない。
しかし、雪充は幾久の父親と会った事がある。
報国院の出身で、自身も東京の大学に行ったという事だ。
しかし幾久のようにずっと東京で生まれ育ったなら、わざわざ報国院なんかに来るよりあっちの学校に行ったほうがいいに決まっている。
だったら、東京の大学云々と言っているのは父親じゃない、という事になる。
幾久は口では『大学のために』とか『進路が』と言っているけれど、行動はそんな風に見えない。
といことは答えは単純だ。
単に母親が、そう言っている。
(そういや入学式の時も、なんか雰囲気おかしかったもんな)
幾久が報国院が嫌で、東京に戻りたいと父親に告げたその時に、雪充も同じ場所に居合わせた。
そのときも母親がいる家に戻る事になる意味が判っているのか、と父親が幾久に尋ねていた。
つまり、父親は教育ママな自分の妻から、息子である幾久を報国院へ逃がしてやりたかったのだろう。
距離的に遠ければ、頻繁に来ることは不可能だ。
全寮制なら尚更。
「ま、いるにしろ出て行くにしろ、勉強するのは良い事だよ。いっくん、鷹は確実ってハル達にお墨付き貰ってるんだろ?」
「鷹は大丈夫って言われてるけど、鳳はどうかってところみたいすね」
「特に今回はね」
鳳を狙って落とされた鷹クラスが、リベンジをかけてくるのが今回の試験だ。
実際、この恭王寮でも鷹クラスの一年生が鳳目指して必死に勉強している。
「タマも、油断していると危ないよ。あんまり順位良くなかったろ?」
雪充に言われて児玉もうつむく。
入学試験の時は必死でなんとかやりきって、おかげで目指した鳳クラスには入れたけれど、鳳でも児玉はランクが下だ。
頑張っていないと、『鷹落ち』してしまいそうな雰囲気があった。
「正直、鳳ってキツイ、っす」
ぼそっと児玉が言い、それはそうだな、と雪充も自身が一年生だった頃を思い出す。
報国院の授業は今までの中学生までとは全く違う。
このあたりの学校は私立がなく、公立の中学校しか存在しない。
だから報国院の鷹や鳳を目指すような中学生はほぼ全員が塾で勉強する。そうでないと絶対に受からないからだ。
そして無事、報国院に入学した鳳や鷹を待っているのはすさまじくハイスピードでレベルの高い授業だった。理数系に限って言うなら、高校一年生であってもすでに公立高校の三年生レベルはやっている。
それについて行けないなら、脱落するしかないということだ。
一年の前期は特にそんな風で、しかも授業もまるで塾のような内容なので真剣に聞いていなければ聞き逃すし、追いつけなくなる。
児玉も必死になって毎日勉強しているが、それでも追いつくだけで必死といった感じだ。
「何回か試験受ければね、先生のクセとか判ってくるんだけど」
だから雪充も、普段の試験でそこまで焦る事もない。
しかし一年生で最初の試験を受ける児玉はそういうわけにもいかないのだ。
「でも絶対に、鳳に居たいんです」
「そうだよね。頑張れ」
「はい」
本気で頑張る児玉を雪充も応援はしているのだが、児玉は考え方が固いところがあり、理解にけっこう時間がかかる。一度理解すれば間違えることはないのだけど。
(あとは鷹がどれだけ追い上げてくるかに、かかってるかな)
鷹クラスは本当に、かなり気合を入れてくるに違いない。この寮の一年生を見ても判る。実際、鳳クラスの児玉にちょいちょい嫌がらせをしているのも雪充は知っている。
勿論、その度に注意はしているのだけど。
「タマは大変だなぁ」
「ヤッタだって心配している場合じゃないよ。鷹に行くつもりなら今期だけじゃきっと無理だから、遅れないように勉強しないとね」
「はいっす!」
雪充にしてみれば可愛い後輩が頑張るのは嬉しい。
出来る限りはなんでも協力してやりたかった。
(あいつらに比べて、本当に今の一年生は素直だなあ)
雪充は御門寮に居た二年生の頃を思い出す。
勉強に関してなら、あの連中……高杉、久坂、吉田は全く問題なかったのだけど、そのほかで問題を起こしすぎた。
寮の責任者の雪充はあっちこっちを走り回っては頭を下げたり説明したり、本当に大変だったのだ。
一生懸命勉強する一年生を見ると、そうだよな、本来はこれがあるべき姿なんだよな、とつくづく自分が置かれた二年間、どれだけ大変だったか改めて考えてしまう。
「雪ちゃん先輩が教えてくれるんだからさ、俺らも頑張らないと」
弥太郎が言うと、児玉も頷く。
まだ入学して二ヶ月程度の一年生は、三年の雪充から見るととても可愛い存在だった。御門寮に思い入れは当然あるけれど、御門寮とは全く違う平和な日々がここにはある。これはこれで、楽しかった。
「でも、雪ちゃん先輩、すごく面倒見いいですよね」
「そうかな?」
そんな風によく言われるけれど、自分では別に世話をやいているつもりはない。
「だって勉強見てくれるし」
「そりゃ、頼まれたらできることはするよ」
それに、と雪充は言う。
「勉強だったら、いっくんのほうが環境はいいんじゃないかな。なんたって三人も家庭教師がついているみたいなもんだし」
そっか、と弥太郎は納得する。
「全員二年の鳳クラスだもんな。幾久無敵じゃん」
「それどころか、ハルと瑞祥は、ツートップだからね」
「ですよね。マジすげー」
鳳クラスというだけでも凄いのに、その中でもトップということは、この市の中でトップをはれるということだ。
「吉田先輩だって頭いいんでしょう?」
「ああ、栄人もけっこう凄いよ。ただ、よくバイトしてるからね、その分やっぱりハルと瑞祥と開いちゃうかな」
自他共に認める『貧乏』な吉田は、暇さえあればバイトをしている。その分顔も広い。
だけどやっぱりそれだけ勉強の時間は減るので、鳳クラスの中間あたりを行ったりきたりしているらしい。
「その三人が全員でかてきょしてくれるなんて、いっくん贅沢だよなー」
「そうかな。ハルってスパルタだよ」
それに、三人と言っても瑞祥が教えに入るとは考えにくい。
実質は高杉一人が真面目に教えて、久坂と吉田は隣に居るだけ、といった感じだろう。
(それでもあの三人が後輩の面倒を見るとか)
今までの三人をよく知っている雪充からすれば、信じられないと思う。
特に久坂なんか、よく幾久を追い出さなかったものだ。
「今の二年連中を昔から知ってるけど、とうてい他人の世話を焼くタイプじゃないよ」
へー、と弥太郎は意外そうだ。
「いっくんの話だと、世話焼きイメージしかないっすよ。朝も一緒に来てるし、勉強も帰ったらすぐに見てもらってるって言ってたし」
雪充は言う。
「そこまで面倒見るタイプじゃないよ、あいつらは。登校は、自分達も一緒だからっていうのは判るけど、勉強を教えるっていうことは、つまりいっくんは実はできる子なんだってことだろうね」
「?」
「……」
弥太郎と児玉は興味深そうに雪充を見た。
「言ったろ。ハルはスパルタなんだって」
「でもいっくんは、んな風に言ってませんでしたよ?」
「だろうね。ハルがスパルタになるのは、トシのように『できな』かったり、『理解していな』かったりした場合にそうなるんだよね」
きちんと説明しているのに、理解に時間がかかるとか、よく判らない相手に対しても高杉は教えるスピードを緩める事がない。
伊藤が鳩に受かったのも、高杉の授業スピードについていけるだけの能力があったからだ。
高杉が教える事にストレスを感じていないというのなら、幾久の能力はけっこう高いという事になる。
親が教育ママなら当然学校も私立で塾にも行っているはずだがら、そういう事に慣れているのだろう。
「ハルは理解できる子にとってはすごく良い先生だからね。いっくん、ハルの教え方を判りやすいって言ってたんだろ?」
雪充の言葉に、弥太郎が頷いた。
「じゃあ、いっくんの教わる能力もなかなかだよ。ハルについていけてるんだから。タマもすぐ追い抜かれるよ」
多分、高杉が本気になって教え込めば、中期で鳳に入れないこともないのだろう。
中期に鳳に入る、と断言していないのは、多分幾久の進路が決まっておらず、そこまでハイスピードで教える必要がないと判断したからだろう。児玉のように、一年生で鳳クラスの子は、間違いなく必死で勉強して受かった子ばかりだ。
だから当然、必死に今の立ち居地を守ろうとするだろうし、鳳に追いつかなかった鷹の子は、入学してからずっと休みなく勉強している子も多い。
幾久はこのゴールデンウィークの間、ずっと先輩連中が連れ出しては遊んでいたらしいから、そのせいもあるだろう。
(いっくんを東京に戻さないよう頑張っているんだな)
幾久の環境に何を見ているのか、雪充にだって理解できる。
幾久の為に、というわけではなく、高杉も久坂も、ある意味自分の為に、幾久をここに置いておきたいのだろう。
幾久を連れ出してお祭りやいろんな事に参加させて楽しんで、そうして少しでもここに魅力を感じてくれるように。
そのためにも、勉強量をセーブして、鷹くらいにしているのだろう。
(ったく、タマが気づいたら泣くぞ)
児玉が必死に頑張って鳳をキープしているというのに、気になる幾久は鳳の先輩連中が『楽しく過ごす』為にわざわざ勉強をセーブして鷹に落ち着けさせようとしているなんて。
児玉から見れば、幾久の環境は涙が出るほど羨ましいに違いないだろうに。
「雪ちゃん先輩、脅してるわけじゃないっすよ、ね?」
雪充の言葉に児玉が尋ねる。
「脅してなんかいないよ。元々、鷹くらいは大丈夫なはずだってハルから聞いてるよ」
卒業間際にトラブルになり、報国院に来た、ということは児玉も知っている。
「いっくんは試験を受けたのが最後の追加なわけだから。その頃にはクラス編成も終わってるだろ?だから鳩なんじゃないのかな」
「……」
ここには雪充と、児玉と、弥太郎しか居ない。だから雪充も込み入った話も平気でする。
「いっくんにその気がなくても、親御さんの教育方針がいい大学に入れるっていうなら、それなりに勉強はさせているだろうし、塾にだって行ってるはずだよ。こんな田舎だって、鳳に入るために塾には行くわけだし。だったら、やっぱりそれなりにいい成績は取れるはず。でないと、親御さんも報国院なんかに入れないと思うよ。いくら母校でも、東京とはレベルが違うのに、なぜわざわざいっくんのお父さんが報国院にいっくんを入れたんだと思う?」
そこで児玉も弥太郎もはっとした表情になる。
確かに、なぜわざわざ幾久を東京の学校からこんな田舎に入れたのか。
「……いっくんなら、うちから東京の大学、目指せるって自信があるから」
「だと、思うね僕は」
雪充は言う。
いくら自分の母校でも、東京のレベルに叶わないことくらいは判っているはずだ。
でも、あの切れ者そうな幾久の父親が、息子可愛いさ、自分の夢の押し付けでこんな田舎に来させるわけがない。
「ってことは」
「親の欲目って言われたらそれで終わりだけど、いっくんのお父さんは、いっくんが鳳狙えるの判ってる、んじゃないかな」
鳳はレベルが違う。もし鳳クラスに入れるなら、充分、こんな地方でも東京の大学は狙える。
児玉は無言になった。
幾久がそこまでとは思っていなかったからだ。
「わかんないよ?僕が勝手に想像しているだけだからね?」
雪充は言うが、あまりにも説得力のある意見に弥太郎もうなる。
「でも、なんかそうかもっていう気が段々してきた。いっくん、のんびしているようでたまにこう、意見が鋭いん」
てっきり、あの高杉の影響だと弥太郎はずっとそう思い込んでいたのだが、ひょっとすると幾久は印象がのんびりしているだけであって、実際はそこまでのんびり屋でもないのでは、と思う。
「じゃあ、逆に、本来のいっくんのポテンシャルは鳳クラスの先輩達に近いってことも?」
「そうかもしれないね。少なくとも、ハル達がいっくんにしっかり勉強を教えていて、いっくんもそれをついていけないなって感じていないなら、レベルに違いはそうないんじゃないかな。ハルはそこまでお人よしじゃないよ」
レベルの低い人に対して親切に教える、なんてことを高杉は絶対にしない。
自分のやり方で、自分のレベルで、ペース配分は目的にあわせてその為に突き進んでいくのが高杉のやり方だ。だから、実は高杉のスピードについていけた伊藤だってかなり凄い。
ただ、伊藤の場合は高杉を心酔しているので、どんな無茶でも絶対に頑張るという根性論がかなり大きく働いてはいたが。
「やべえ。俺、鷹いけるのかな。一年の間に狙えたらラッキーって思ってたのに」
「本気の狙い目は実は中期なんだよね。前期からの頑張りがあったとしても、夏休みが入るとどうしてもだらけるから。夏休みに気が緩んだままの鳳が、後期には鷹どころか鳩に落ちてるなんてのもよくあるよ」
三年だけあって雪充は事情をよく知っている。
「逆に、中期に希望のクラスに入れなくてもまだ頑張るっていうタイプは、後期には必ず希望のクラスにいけるよ。それだけ気が緩まないってことだから」
後期に希望のクラスに入るまで頑張る、ということは折角受かったのに入学からずっと冬まで、つまりほぼ一年間受験のような勉強をし続ける、ということだ。
「確かにそこまで行くと執念かも」
俺、頑張れるかなあと弥太郎がはじめて弱音を吐く。
「別に弥太郎はどうしても鷹って思っているわけじゃないんなら、頑張る必要はないじゃない」
「や、でもいっくんに言いたいんすよ!俺も鷹行く、って」
「言うだけならいくらでも言えんだろ」
児玉が乱暴に言うが、弥太郎は、えぇー、と唇をすぼめて蛸のような顔を作った。
「言うだけって嘘ってことじゃん。やだよそんなん」
「でも勉強するの面倒じゃん」
「あれ、タマってそう思ってるんだ」
意外そうに雪充が言う。
「思ってますよ」
児玉が答えた。
「正直、俺そんな頭よくないし、勉強も得意じゃないっす。鳳が目標だから、大学だっていい所に行きたい!っていう野望もねーし。あ、ないし」
先輩の前なので言葉を言い換えたけれど、雪充はそんなのを気にしない。こんな事を気にしていたら、高杉達となんか一緒に居られないからだ。
「鳳きっついなって、正直ちょっとウンザリしてるところっす」
児玉の正直な言葉に、弥太郎は肩をすくめ、雪充は苦笑した。児玉が必死に頑張っているのを知っているから、応援はしている。
だけど、鳳以外の目標がないまま、勉強をし続けるのは正直難しいのではないかと思う。
「大学とか、いまのうちに目指すところ探したらいいのかもしれないんすけど、ずっと鳳の事しか考えてなかったんで、今は鳳についていくので精一杯っていうか」
児玉にとって、目標は鳳クラスだった。だから受験の時はいくらでも頑張ることが出来た。
絶対に報国院に受かって、鳳クラスに行くんだ、あのネクタイを締めるんだ。
そんな児玉の願いは、叶いはしたけれど。
「今のクラスに居るための努力って、けっこうテンションあがらないっすね」
クラスメイトで弥太郎と幾久のように、すごく仲がいいやつがいる訳でもない。
それなりに話をする人もいないこともないけれど、授業についていくので精一杯の児玉は、時間さえあれば教科書や教材とにらめっこだ。
それでも、鳳の下のほうなのだから、上にいるやつとは頭の出来がそもそも違うんじゃないのかと思ってしまう。
「勉強ってやり方があるし、特に鳳になると自分で考えることが重要になるからね」
鳳の授業は教科書も使うが、教師が独自の授業を作って行っているので、いかに基礎が出来て理解しているかが重要になる。
だから、高杉のようにじっくりと基礎を理解していて、自分の頭で考える癖が昔からあるタイプは、鳳の授業についていける。
鳳から脱落するのは、詰め込み式の勉強で乗り切ってきたタイプの人間だ。試験はそれでなんとかなっても、授業についていくのが難しくて、児玉のようにうんうん悩む羽目になる。
児玉は真面目だ。基礎をやり直して、きちんと理解しようともしている。
だけど圧倒的に、自力で思考するという能力がまだ実っていない。
鳳クラスに入って最初に躓くところに、見事躓いてしまっているというわけだ。
「鳳の授業に関してはさ、タマがついていけないっていうのはレベルの話じゃないから。あくまでタマの考え方がまだ固まってないせいだからね」
とにかく授業の内容もハイペースではあるが、自分の考え方に当てはめていけば早くてもどうにかなるものだ。
だから、報国院に入学する前から『自分なりの考え方』というものをしっかり持っている連中の、理解力は半端ない。ちょっとやっただけでさっと理解できてしまう。
その最たるものが、高杉や久坂、吉田だが。
(いっちばん判りやすいのが、山縣だよなあ)
同級生の変わり者、山縣を思い出して雪充はため息をつく。
オタクな山縣は高杉を心酔して高杉に嫌がられているのだが、タチが悪い事に、山縣の能力値は高い。
言っている事は山縣なりの理屈はあるし、理解力もその気になればすさまじく高い。
勉強も成績もどうでもいいけど、鳳じゃないと高杉と一緒の寮に居られないから鳳に居る!という、理解できない考えを持っている。
そんな馬鹿げた考えで、鳳なんかに入れるわけがないと山縣を嫌う同級生は言っていたが、そこでさくっと鳳に居るのが山縣だった。
そのくせ遊びたい事があるとそっちを優先して、鷹に落ちてはまた鳳に戻る。
戻るときは『戻るかー』みたいな感じで軽く戻るのがまた努力タイプには気に入らないらしく、喧嘩になってしまうことが何度もあった。
また山縣も、そういったタイプに対して遠慮するとか気遣うことは一切しないので『能力低いやつがからんでんじゃねーよ、うぜー』とかインターネットの感覚を現実に持ってきてはまたトラブル、という事をよくおこした。
だから児玉には、そうなって欲しくはなかった。
「ねえタマ。いやな事を言うようだけど」
児玉が顔を上げた。
「もしも、タマが中期に鳳じゃなかったとしても、それはタマの能力が低いせいじゃないからね」
「……?そう、ですかね」
「そうだよ。だって鳳に入学できたことだけでもけっこうたいしたことだよ。僕が言うと、自画自賛みたいに聞こえる?」
鳳クラスの雪充が言ったら確かにそう聞こえてしまいそうだが、嫌味なところがない雪充の雰囲気に、児玉は首を横に振った。
「鳳の授業についていけずに脱落するのを、僕だって何人も見てきたけど、能力が低いから落ちるわけじゃないっていうのはわかるんだ。努力しなけりゃ、そりゃ落ちるのは当然だけど」
「……」
「鳳に所属している連中って、鳳にずっと居ることが多いじゃない?」
「ああ、ハイ」
鳳クラスに入っている人は、落ちたり、あがったり、という人も居れば不動の人も居る。雪充も高杉も久坂も吉田も、その不動の位置に居る人たちだった。だからそれなりに校内で知名度があるのだ。
「それは頭がいいからって言うよりも、自分の考え方を把握して、それを勉強に応用できているからだよ」
「よく判らないっす」
「つまり、どんな勉強であっても、自分が中心にいて考え方を持っていないと、とてもじゃないとついていけないって事だよ」
児玉がつらいのはそのせいだ。
授業にあわせて勉強すれば、あのスピードについていくのは難しい。
でも、自分が何を理解して、なにを理解していないのかを把握して、自分なりの考え方に照らし合わせていけば出来ないこともない。
「鳳クラスって、どんな授業も数学の証明問題みたいなものだから。まず、理解しないと理屈が全く合わなくなってしまうんだよ」
「なんとなくだけど、判ります」
「でもさ、証明をするには基礎を理解してないとできないよね。その基礎が、鳳では『自分の考え方』ってやつになる。タマは、それだけがまだ整ってないから辛いんだよ」
「はい、」
児玉は返事をくれたが、理解できていないような声のトーンだ。
「……わかんないよね?ゴメン。僕も上手く説明できなくて」
「いや、俺が、わかってないっていうのは判ります。証明問題っていうのも判りやすいし。でも、きっとまだ判ってないんだろうなっていうのも、判ります」
基礎の勉強はきちんとやっている。
能力だって低いわけじゃない。それなのにどうして、鳳にいけないのか。
なぜアイツなんかより、俺の方が下なんだ。
そう言う連中を、雪充は何度も見てきた。
「うまく説明できる誰かが居たら、いいんだけど」
そう悩んで、雪充ははっと気づく。
(―――――え?)
いや、一人居る。たった一人、その考え方という理屈に対して凄くわかりやすい存在が。
(あいつが確かにそうだけども)
説明に困る。
ここで児玉になにか説明しても、あれが見本じゃきっと混乱を呼ぶだけだろう。
「雪ちゃん先輩?どうしたんっすか?」
「―――――いや、なんでもないよ。うまく説明できなくてゴメンねタマ。勉強に戻ろっか」
「あ、ハイ」
これ以上悩みを増やすよりも、勉強に戻ったほうがいい。
児玉にはもうちょっと、上に行って欲しいけれどだからといってあいつを例に出すのはやりすぎだ。
あれはいつの事だったろうか。
試験前に必死で勉強するある同級生が、あまりのふざけた態度の『あいつ』に我慢できなくなり、かなり手ひどい文句を言ったのだが。
あいつときたら文句を言われて凹みもしなければショックも受けない、言い返しもせず爆笑して、さんざん馬鹿にした挙句にその同級生を鳳からひきずりおろしてしまったのだ。
その時の試験は難しかった。
完全に内容を理解していないと絶対に解けない問題ばかりだった。
正直、雪充にとっても難しいその問題を、あいつは全く平気な顔で理解して見せて、さすがに雪充もその時は驚いて尋ねてしまったのだった。

『一体、どういう考え方をすれば、あれを間違いなく理解できて、かつ、答えを間違えずに済むのか』と。

その試験については、圧倒的にあいつの一人勝ちだったからだ。

あいつはこう、言ったのだった。

『は?あんなんカードバトルに比べたら、めっちゃ設定楽ちんちんじゃねーかよ。こっちのポテンシャルと相手のポテンシャル、環境、パターン、性格、ゲームルールで考えたら簡単すぎて単なるクソゲーだわwwwwあんな設定程度もクリアできねーなんて終わってんなおめーらwwwチュートリアルも終わらねーんじゃねえのwww』

それだけ言うといつも通り部屋にこもってしまった。
雪充はやっと理解した。
山縣の考え方が、自分には絶対に理解できないということを。
ゲーム脳もあそこまで極めれば、確かに勉強に応用できるのかもしれないが、果たしてゲーム脳がそうなのか、山縣が一人だけそうなのか。
それは雪充には判らない。

必死に勉強している一年生を尻目に、山縣のようにはなってほしくはないけれど、自分なりの考え方を持って、希望のクラスに所属できたらいいんだけど、さてどうやってそれを教えたらいいのかなと雪充は頭を悩ませる。
この一生懸命さを歪ませずに、希望の場所へ昇るために、自分に何が出来るのだろうか。

とっくに歪みきった後輩しか知らないから、歪ませないのが正しいのか、歪んでも伝えるのが正しいのか。
雪充には全く判らず、勉強は中々身に入らなかった。

(いつか、わかるようになるのかなあ)

困ったときに尋ねればなんでも答えてくれたあの老人のように、自分もいつかああなれるのだろうか。
美しい松葉緑の羽織を羽織った、いまはもういない翁を思い出しながら、雪充は再びノートへ目を向けたのだった。



桂 雪充の憂鬱・終わり