夜の踊り子
(2)夜の踊り子
「へぇー、先輩に勉強見て貰ってんだ、いいなあ!」
幾久と同じクラスの桂弥太郎は羨ましそうにそう幾久に言った。
「ハル先輩、めっちゃ教え方うめーもんな。幾久絶対成績あがるぜ」
そう言ったのは同じくクラスの伊藤俊介だ。
「うん、確かに教え方上手かった。すごく判りやすい」
幾久が頷くと、なぜか伊藤が得意げに言う。
「だろだろ。この俺様を鳩につっこめる実力の持主だからな!実力は折り紙つきってもんだよ」
伊藤曰く、自分は絶対に最低レベルのクラスである千鳥にしか入れない程度だったのを鳩のレベルにまで押し上げてくれたのが高杉なのだという。
元々、高杉が習い事の先輩ということもあり、伊藤は高杉を心酔している。高杉がいるから幾久が住んでいる御門寮に入りたいと言っているほどだから相当だ。
「まあ、助かる。それに本当に鳳はレベル高いって判ったし」
この報国院は成績でクラスが決まるのだが、その成績トップのクラスが『鳳』で、幾久と同じ寮に居る二年生三人は全員がその鳳クラスに所属している。
当然勉強はできる人ばかりだ。
ここに入学した当時は、所詮進学校といっても地方レベルだと東京出身の幾久は思っていたが、そんな考えはすぐ払拭された。
トップクラスの鳳どころか、次のランクの鷹クラスだってかなりのレベルだったのだ。
地元出身の桂と伊藤と違い、この学校の事情には全く疎かった幾久であっても所属してひと月も経てばクラスのレベルが見えてくる。
(よくよく考えりゃ、父さんもこの学校出身なんだもんな)
幾久の父はこの報国院の出身で、東大から官僚になったエリートだ。レベルが低いわけがない。
「でもさ、ヤッタだって雪ちゃん先輩とかいるじゃん。教えてくれそうなのに」
弥太郎の所属する寮には、面倒見のいい桂雪充という三年生が居る。頼めば勉強くらい見てくれそうなものだが。
「うーん、頼めば教えてくれるとは思うんだけど、実は結構タマのガードが固いというか」
タマ、とは同じ一年生で鳳クラスに所属している児玉の事だ。弥太郎とは同じ寮で生活していて、三年の桂雪充に懐いている。
「タマがずーっと雪ちゃん先輩に勉強見て貰ってるからさ。なんか頼みづらくって」
「児玉君かぁ。だったらしょうがないね」
幾久と違い、児玉はこの報国院に入りたくて入りたくて、鳳に所属したくてしたくて、やっとの思いで入ったそうで、そんな訳で報国院の価値も知らず、この学校に入りたくて入った訳ではない幾久とは対照的だ。
以前、幾久が不良に絡まれたときに助けてくれたのは児玉なのでそこまで嫌われてはいないだろうが、この学校に全く思い入れがないどころか踏み台にする所だった幾久に対して児玉があまりいい感情を持っていないのは確かだろう。
「タマってけっこう冷静そうに見えて激しいから」
「あー……わかるかも」
助けて貰ったとき、幾久に喧嘩を売ってきた他校の生徒に思い切り冷静な表情なのにいきなり相手を一撃でひるませ、かばんを投げつけた。
おかげで幾久はあれ以上酷い目にあわなかったし、いろいろ助かりはしたのだが。
(あんときの児玉君、怖かったよな)
いつもの、尊敬している雪ちゃん先輩に向けるような、きらきらした従順な目ではなく、いきなり噛みついてくるような凶悪な表情だった。
(雪ちゃん先輩があこがれっぽかったから、やっぱかなり本当はアレ、なのかな)
本当はあの凶悪なほうが児玉の本性で、いつもは三年の雪ちゃん先輩の手前おとなしくしているらしい事は簡単に想像がついた。
(……怒らせないように気をつけよ)
それより、幾久には今の鳩クラスよりひとつでもレベルを上げる事のほうが重要だ。
「みんなやっぱ上のクラス狙うの?」
幾久の問いに、桂弥太郎と伊藤は顔を見合わせた。
「俺は絶対にいつか鳳狙ってっけど、かなり無理っぽいしなあ」
伊藤の言葉に弥太郎も頷く。
「そりゃ、上のクラスに行ければいいけど、今すぐ上に行きたいっていう目標もないし、鳩なら現状維持でいけるし」
それに、と弥太郎が言う。
「一年の最初の試験が実は一番みんな張り切るって、雪ちゃん先輩が言ってたから、正直今回は見送ろうかなと」
「あ、それ栄人せんぱ……吉田先輩も言ってた」
幾久が頷く。
受験して出た結果が一年前期のクラスだから、希望したランクのクラスでなかった場合、一番頑張るのがこの試験だと言っていた。
「そっか。次から頑張るほうが楽な場合もあるか」
「うん。いっくんも面倒ならそうしたらいいのに」
弥太郎が言うが幾久はうーん、と考えて首を横に振る。
「やっぱ結果出しとかないと父さんに悪いし」
「そっかー。でも寮の先輩鳳だし、教えて貰ってんならいけるんじゃない?」
「絶対大丈夫だって!なんたってハル先輩がいるんだからな!」
二年の高杉を心酔している伊藤は相変わらずで、しかし確かに教え方は抜群に上手いのでそうかも、と幾久も頷いたのだった。
先輩たちは普段本気でふざけている分、真面目になるのも本気だった。
幾久が勉強を『なんとなく』やらなきゃな、と考える前にすでにスケジュールが組まれ、その中には先輩達三人分の勉強の予定も組んであった。
つまり、幾久の勉強を見つつ、幾久が考えている最中は自分達も勉強するという非常に無駄の無いスケジュールを組んでいた。
学校から帰って着替えを済ませ、お茶を飲んで一息ついたら吉田が「じゃ、そろそろやろっか」と言うとさくっと全員が勉強モードに入る。
集中してやって、ある程度の時間がきたら吉田がいいタイミングで「ぼちぼち休憩にしない?お茶入れるよ?」と休みを提案する。
そんな事を数回やっているうちに寮母の麗子さんがいつの間にか来て夕食を作ってくれて、それが済んだらまた勉強、風呂、というスケジュールだった。
こんな風に勉強ばかりというとうんざりしそうなのだが実際そんなことはなかった。
多分、判らない問題があってもすぐに教えてくれる先輩が傍にいるし、その教え方が上手いのでストレスに感じることも無かった。何時まで、と決まっていることもないし、なにかと吉田が休憩をはさむのであんまり根をつめているようにも感じない。
(本当に頭が良い人はガツガツしないって言うもんな)
高杉も久坂も吉田も、勉強はしていても必死感は見えないし、話している内容も授業のおさらいや予習っぽい。幾久から見ても、多分この人たちは今のクラスから落ちることはないだろう、ということは想像がついた。
「じゃ、わしらは先に休むぞ」
「おやすみ、いっくん」
風呂からあがった高杉と久坂が言うと、まったりテレビを見ていた幾久は「ふぁーい」と返事をした。
勉強はとっくに済んでいたが、いまから幾久の好きなサッカーの番組が始まるのだ。
この寮の人はあまりサッカー、というか海外のサッカーに興味がないので結果一人で幾久は見る事になる。
すでにお風呂も済ませているのであとは寝るだけだ。
台所では吉田が片付けたり、明日の支度をしたりしている。
「いっくん、俺先に寝るけどかまわない?」
「あ、いいっすよ。おれ、今日ちょっと試合見たいんで、寝るの遅くなるっす」
「りょー、じゃ俺片付け終わったら適当に寝るね!」
「うす」
こんなときはこの寮で本当に良かったと思う。
慣れるまではうっとおしい事もあったが慣れてしまえば大人のいない家みたいで面白いし、実際幾久は自宅に居た頃よりも自由だった。
自宅に居た頃はサッカーもおどおどしながら、母の機嫌を伺いながら見なければならなかったけれどここではそんなこともない。
テレビを見ていると、吉田がコーヒーがたっぷり入ったサーバーを置いた。
「たくさん入れといたからさ、飲んでいいよ」
「うっす。でもこれ、多くないっすか?」
コーヒーがあるのはありがたいが、こんな何杯も必要ない。マグカップに一杯で充分なのに。
「ああ、いいよ置いといて。どうせガタが夜中に飲むし」
「あ、そっか」
三年の山縣は夜型で、よく夜中に起きてはネットでゲームをしたり友人と遊んでいるみたいだった。
「じゃあ、これ余った分は置いといていいっすね」
自分のぶんだけをカップに注ぎ、幾久が尋ねると吉田が「そうそう」と頷いた。
「じゃあ、俺寝るから。お先に。あんまり夜更かししちゃ駄目だよ」
「はい、おやすみなさいっす」
そう言うと吉田は自室へと戻った。
サッカーの試合は一試合につき前半が四十五分、休憩十五分をはさんで後半が四十五分で、試合だけで一時時間半、休憩とロスタイムを含めれば二時間近くになる。興味のない人につき合わせるのは悪いので、勝手に消灯というシステムはこういうときにありがたい。
コーヒーを飲みつつ、じっとテレビを見ていると試合が始まり、幾久は夢中でサッカーの試合を見ていた。
前半が終わりハーフタイムになったところで、幾久はトイレに行くことにした。トイレまでは長い廊下を通って行くのだが、日本家屋なので廊下から庭は丸見えだ。用を済ませてふと庭の方を見ると、オレンジ色の光が見えた。
「なんだ?」
この御門寮の庭は馬鹿みたいに広いので、庭にも当然明かりがつけてあったが、それは白い街灯でオレンジ色ではなかったはずだが。
「……」
目をもういちど凝らす。
庭にある、大きな池の向かい岸にある茶室あたりから光は見えた気がしたが。
「!」
(気のせいじゃない!)
ゆらり、とオレンジ色のぼやけた光が動き、幾久はぞっとして背を向ける。
『出るんだよ、ここ』
寮に入ったその日に高杉から聞いた言葉が甦る。
「……はは、まさか」
そう言いながらも幾久は一度も庭を見ることなく、廊下を小走りで居間へ戻ったのだった。
明るい居間に帰るとほっとして、幾久は力が抜けて座り込んでしまった。
(気のせいだよな、アレ)
明るい場所に戻ると安心して、幾久は冷静にさっきの現象を考える。
火の玉とか、幽霊とか、そんなものを幾久は一度も見た事がない。というか信じていない。
見た事がないものを信じようもなかったし、高杉の『出るんだよ』発言も冗談だと思っていた。
(や、絶対に冗談だろ)
確かに先輩たちはそれぞれお守りみたいなものを持っていたが、そもそも報国院が神社の中にある学校なので自然そういったものにみんな興味を持っていた。
だからわざわざ『幽霊が出るから』ってお守りを持っているようには見えない。
しかし、さっきは絶対にオレンジの光が見えた。それは気のせいじゃないはずだ。
(二回も見えたし)
それによく考えると、こう、オカルト的と言うよりは夜に飛行機から見る都会の光の流れに似ていた気がする。
つまりは、人工的な光ということだ。
もし幽霊だと言って実はなにかのライトの光でした、なんてオチがついたら先輩達、特に山縣にはものすごく馬鹿にされるだろう。
(うわ、絶対に嫌だ)
ただでさえ、なにかと『鳩』と馬鹿にされるのに、もしこんな事を言えば『だから鳩なんだよ』と言われるのは間違いない。
もしあのオレンジの光をもう一度見たら、絶対に原因を探ってやる。
そう思った幾久だった。
翌朝、幾久は朝食を食べながら吉田に尋ねた。いつも朝食は山縣以外のメンバーが一緒だ。
「あの、栄人先輩」
「ん?」
「オレがこの寮に来た日に、この寮って出るって言ってましたよね?」
「出る?何が?」
吉田は幾久の質問にきょとんとして首をかしげている。
「だから、コレ」
コレ、と手首をだらんと下げると、吉田はああ、という顔をした。
「なに?なんかへんなのでも見た?」
「っていうか、人魂的な?」
人魂、という幾久の言葉に、高杉と久坂が顔を上げた。
「ひとだま、ねえ」
少し笑って吉田が言うと、幾久は尋ねた。
「昨日、サッカーのハーフタイムにトイレ行ったんす。そしたら茶室あたりでこう、オレンジの光がゆらーって動いたの見たんすよ」
「……へぇ」
そう言ったのは久坂だ。
「気のせいじゃろ」
あっさり言うのは高杉だ。
「そうっすよね」
やはり想像どおり、先輩たちは全く幾久の言葉を信じていない。
(ってことは、幽霊や人魂なんかいないってことか)
先輩達はこう見えて、本当の事は絶対に幾久に隠すことはない。入寮した日に『出る』とかいったのも単なる脅しかからかいだったということになる。
「多分さあ、街灯かなんかが反射したんだよきっと」
この寮は旅館のように大きくて広く、あちこちに明かりが灯してある。その可能性も充分あるが。
(でも、あの光えらく動いていたような)
考え込む幾久に、めずらしく久坂が言う。
「試験前に余計な事考えないほうがいいよいっくん。ささいなことかも知れないけど、今は試験に集中しないとさ」
「そうそうそう。ハルと瑞祥に勉強教わってるんだからさ、絶対に最低でも鷹にはあがらないと」
こわいぞー先輩は、と茶化しながら吉田が言う。
(そうなんだよな)
先輩達も勉強しているとはいえ、一番レベルの高い鳳クラスにいる先輩達に幾久が助けて貰っているのは事実だから、余計な事に気を回すわけにはいかない。
(でも、気にはなるんだよなー)
絶対に幽霊や人魂じゃないのなら、あの奇妙な光は一体何なのか。判らないのも悔しいなと幾久は思う。
「それよりホラ、ぼちぼち出たほうがいいよ」
吉田が言うと、確かにそろそろ寮を出る時間になっていた。
「あ、本当だ」
「幾久。今日栄人は後から出るから、ワシらと先に行くぞ」
「はい」
いつもなら高杉と久坂、吉田と一緒に出るのだが、今日は吉田が用事があるのか、もしくは今から山縣を起こすのかもしれない。
山縣は夜中にゲームをしているので、朝はいつもギリギリだ。しかし今日は遅すぎる。
「ガタ先輩、今日はすごい遅いっすね」
「まあ、ほんと今日はまずいから、おれが責任持ってたたき起こすよ」
とても三年の先輩に向かって言う言葉じゃないけれど、高杉も久坂も「頼む」と言って先に寮を出たのだった。
「……ってことがあってさ」
昼休みになり、学校の食堂で昼食を取りながら幾久は説明した。昼食はいつも同じクラスの伊藤、桂弥太郎が一緒だった。
「ハル先輩が気にすんなっつーなら平気だって」
相変わらず高杉を心酔している伊藤はよく判らない理屈で納得している。
「でもさあ、気になるしちょっとわくわくするよね、そういうの」
楽しそうに弥太郎が言う。
「ヤッタって霊感あるほう?」
「おれ?そんなんないほうー」
「だよね」
明るい弥太郎と幽霊なんて全く縁がなさそうだ。
「あ、じゃあさじゃあさ、雪ちゃん先輩ならなんか知ってるとか?」
「あー、」
弥太郎の寮の先輩の桂雪充はこの前まで御門寮にいたから確かになにか知っているかもしれない。
高杉、久坂、吉田の三人はあんなにタイプが違うのに、ものすごくがっちりした共有意識みたいなものがあって、一人が「駄目」と言えば三人とも駄目なことが殆どだ。つまり、一人が『気にするな』と言えば三人とも幾久になにか言うつもりはないということになる。
「実際、たいしたことないかもしれないんだけど、もしそうなら『あれ街灯だって』とかはっきり言いそうなんだ、吉田先輩」
幾久が言うと、弥太郎が頷く。
「あー。たしかに」
「でも『気にするな』ってなんか『関わるな』っぽいんだよ、あの三人が言うと」
「わかる」
伊藤も頷く。
「じゃあさ、余計に雪ちゃん先輩に聞いたらいいじゃん!雪ちゃん先輩に聞いたら、高杉先輩達も絶対に怒れないじゃん!」
確かに、と幾久は頷く。なんだかんだ、二年の先輩たちは桂雪充先輩には一目おいている。
「じゃ、早速探してみよ!」
テンション高く、弥太郎は食堂内をきょろきょろと探した。寮生ばかりの報国院は当然皆昼食はこの食堂で取るか、購買部でパンなどを購入する。
「あ、雪ちゃん先輩いた!呼んでくる!」
弥太郎の行動は早く、食事を終えていたらしい雪充を見つけると、幾久達のいるところへ来てくれた。
「あ、すんませんっす」
幾久がぺこりと頭を下げると雪充が「いいよ」と笑う。相変わらず穏やかが服を着ているような人だ。
「ヤッタが言ってたけど、御門寮で聞きたいことって?」
「えと、あの昨日の夜中に実はヒトダマみたいな光を見て。オレンジ色の」
雪充の表情が一瞬固まったのを幾久はきちんと見ていた。
「でもなんか、すごいフツーの街灯とか、ネオン的な光にしか見えなくって。栄太先輩は街灯の光を見たんだろうって言うんですけど」
「……あー、まあ、……うん、そう、だと思うよ」
苦笑しながら雪充が言う。
「そうなんすか?」
「栄太がそう言ったんだろ?だったらそうだよ。それにそんな夜遅くまでおきてちゃ駄目だよ。勉強もやりすぎたら効果ないからね」
「ウス、あざっす」
じゃあね、と雪充はその場を去った。
「なんだ、やっぱ街灯なのかぁ」
幽霊でもヒトダマでもないのかーと弥太郎は残念そうに言う。しかし幾久は難しい顔をしている。
「いっくん?」
「なんでもない」
折角雪充を呼んでまでくれたので弥太郎に言うわけにはいかない。
(先輩達、なにか隠してる)
そう気づいた幾久だったが、誰も教えてくれる気がないのなら、このままにしておくしかない。
当然、幾久としてはそんなつもりはなかったが。
いつも通り寮に帰ると、最近そうしているようにお決まりのスケジュールで幾久と二年生の三人は一緒に勉強をした。
しかし、なにか足りない気がしていたら全く山縣の姿を見なかったという事に気づいた。
「そういや、ガタ先輩は勉強しなくていいんすか?」
「まあ、してるんじゃないのかな」
吉田が言うので幾久は信じられず顔を上げると、久坂は頷く。高杉は無視している。
「でもずっとゲームしてるっぽいですけど」
元から早起きではなかったが、最近特に起きてこないので、絶対に夜中までゲームに夢中なのだろうと思ったのだが。
「つうか、ガタはむしろ今が今までどおりだよ。最近は早起きだったほうで」
「えぇー?」
「一応、いっくん来てるから気を使ってたんだよあれでも」
「微妙な気遣いっすね」
最近は幾久が寮を出る時間になっても起きてこないが、ちょっと前までは食事の最中くらいには起きてきていた。そんなことをされても幾久には特に関わりもないので、意味わからない、と幾久が言うと吉田がまあね、と笑う。
「ま、あいつなりにいっくんと合わせようとしたんじゃないの。無駄だけど」
相変わらず山縣はよく判らない人だなと幾久はそう思って、そのままいつも通りに勉強をした。
「いっくん、今日もサッカー?」
もう寝支度に入ろうとしている久坂と高杉に、幾久は「はい」と答えた。
「早く寝たほうがいいのは判るんすけど、どうしてもこれだけは見たくって」
見ちゃいけない、と暗に言われているような気がしてそう言うと、久坂は笑う。
「別に子供じゃないんだから、テレビ見ないで寝ろなんて言わないよ」
いっくん頑張ってるしね、と久坂が言うと高杉も頷く。
「このままのペースできちんといければ、まあ鷹は固いじゃろうし」
「そっかー」
なんにせよ、成績のいい先輩達がお墨付きをくれるのは嬉しいし安心する。
「だったら遠慮なく、テレビ見るっス」
「はは、じゃあ僕らは先に休むね」
「おやすみ、幾久」
「おやすみなさいっす、久坂先輩とハル先輩」
あぐらをかいたまま、ぺこっと頭を下げる。そうして再び幾久はサッカーの放送を待っていた。
放送が始まれば当然夢中になってサッカーを見てしまったが、ふと、ハーフタイムに以前の事を思い出した。
(そういや、前もこの時間に変な光が見えたんだよな)
わざわざ雪充にまで尋ねたのにうっかり忘れていた。
雪充の言葉に幾久は、絶対にあの光にはなにかあると思っていたのだ。
『それにそんな夜遅くまでおきてちゃ駄目だよ。勉強もやりすぎたら効果ないからね』
雪充の言葉を思い出して、幾久は(やっぱりおかしいよな)と思っていた。
なぜなら、幾久は何時まで起きていたのかを雪充に言っていなかったからだ。
光が見えた、とは伝えたが、勉強していたとか深夜放送の海外サッカーのハーフタイムとか、そういったことは一切伝えていない。それなのに、雪充が勝手に早く寝たほうがいいくらいの真夜中と判ったのは何故なのか。
(そんなの、知ってるからに決まってる)
雪充の表情で、幾久はそう信じていた。
幾久に理由を言ってくれないのは正直ショックではあるが、幾久が鳩クラスで、現在上のクラスを目指すために勉強をしていることは弥太郎から伝え聞いているはずだ。
だから実はたいしたことがないことかもしれないし、どうでもいいことなのかもしれない。
しかし、勉強の為としても、幾久の事を考えてくれたのだとしても、なにか隠されるのは子ども扱いされているみたいで嫌だ。
幾久はハーフタイムに突入すると同時に、トイレに向かう。当然、尿意などなかったけれど。
以前と同じようにしようと思い、尿意はなくてもトイレを済ませ、手を洗い居間へ戻ろうと廊下を歩く。
ゆっくりと歩いてみたが、やはり何も明かりは見えない。
(やっぱ気のせいだったとか?いや、でも絶対に見たし)
幾久は居間まで戻ろうと廊下を歩くが、ぱちんと廊下の明かりを消す。まるで廊下を通り終わり、居間に戻ったかのように。
すると、暫くしてオレンジの光がゆらりと見えた。
(―――――!)
あれだ!
以前と全く同じ、オレンジの棒状の光が一瞬ゆらぎ、ふわんと消えた。
(間違いない!やっぱなんか光がある!)
以前は驚きのあまり、吉田の言うとおり外の明かりかとも思ったがあれは全くそんなものじゃない。
「……」
幾久は暫く考えると、暗い廊下を忍び足でそっと歩く。そうして再びトイレへ戻り、ふと思い立って山縣の部屋へ向かう。
ひょっとしたら山縣がまたなにか変な事をしているのかと思ったからだ。
しかし、しのび足で山縣の部屋の前を通ると、ドアから明かりが漏れていたしなにか喋っている声が聞こえる。どうやらインターネットかなにかで誰かと喋っているらしい。
(ってことはガタ先輩でもないってことか)
吉田はさっきまで台所の片づけをして今風呂に入っている最中だし、高杉と久坂はもう寝ている。
(じゃあ、まさか本当に幽霊、とか?)
しかし雪充や他の先輩の態度からそうは思えない。
一瞬、山縣に尋ねてみようかとも思ったが、絶対に『幽霊とかWWWWバカスWWW』ってネットスラングでバカにされるに決まっている。
(あーもう、一人で行ってやるよ!)
どうせ寮の敷地内だし、なんかあったらすぐに先輩達がかけつけてくれるし、敷地内には寮母の麗子さんだって居る。
絶対に大丈夫のはず、と幾久はそっとトイレとは反対側の廊下の窓をあけ、庭履きのクロックスをはくと静かに庭へ出たのだった。
御門寮の庭は呆れるほど広い。
小さい山がほとんどひとつ入っているというのだからそれも当然だ。庭を全部回るだけでいい散歩になってしまうくらいに広い。
寮から離れた小高い丘、当然それも寮の敷地内にあるのだがその奥に滝があり、その滝から御門寮の池に向かってS字の連なったような川が流れている。
その川のほとりに小さな茶室がひとつあるのだが、光は間違いなくそのあたりから見えた。
御門寮の敷地内は広いが、昔のお偉いさんの家だっただけあって、侵入するのは難しい。
入ろうにもあの大きな門を超えなければならないが、そう簡単に入れるわけじゃない。壁だって、その手前には溝があるし高さもある。それこそ忍者でもなければ絶対に無理だ。
それなのに不法侵入するやつがいるのか、それとも先輩達が隠しているなにかがあるのか。
隠しているのならそれを暴いて鼻をあかしてやる、なんて軽い気持ちで幾久は明かりの元に、静かに静かに近づいていく。
敷地内は広いのと、そんな泥棒なんか入る余地もないようであっても所々街灯がついているので、全く見えないほどでもない。
もうすぐ茶室に到着する、というあたりで幾久はがさりという音を聞いた。ぴた、と幾久は体を止める。
(……いま、なんか音が)
自分の呼吸音さえ聞こえそうなくらいに、真夜中の御門寮は静かだ。足を止めた今、静かにあるく足音すら聞こえない。自分の呼吸音と、なにかの気配。
(……なんか、いる)
霊感なんか全くない幾久でも、気配くらいは流石に感じる。いま、なにかが絶対に幾久の目の前の暗い闇の中にいる。
「―――――だれだよ?」
わざと強気でそう尋ねると、がさりとなにか、人の形をしたものが出てきた。
「―――――!!!!!!」
あまりの事に息を呑んだ。それは全く人の形ではあったけれど、顔に顔がなかった、つまりのっぺらぼうのようにつるんとしていたのだ。
そしてそのつるんとしたのっぺらぼうは突然、声を出した。
「ウォオオオ」
そして幾久のほうへ向かってきた。
「うわ―――――ッ!!!!!!!」
あまりの事に驚いてしまい、幾久は叫んだが驚いたあまりに足を踏み外し、池にばっしゃーんと落ちてしまった。だが、それどころじゃない。
池から慌てて出ると、寮へ向かい廊下のガラス戸をあけて入ろうとしたが、幾久が出てきた場所と違うのでそこは鍵がかかっていて開かない。
ガタガタとガラス戸を強引に開けようと必死で何度も戸を開けようとするが当然そこは開かず、のっぺらぼうは追っかけてくる。
「せんぱいっ!せんぱいたちっ!」
必死でがたがたやっていると、音と声に何事かと高杉が目を覚ましたのかまだ寝ていなかったのか、部屋から出てきて驚いてガラス戸をあけた。
「どうしたんじゃ、一体!」
なにがあった、と幾久に尋ねるが、幾久はあまりのことに、のっぺらぼうを指差すことしかできない。
池に落ちてずぶぬれの上に、高杉を見て安心したせいで腰が抜けてしまった。
騒ぎに久坂も出てきてなぜか山縣まで出てきた。
そして心底あきれた声で高杉が言った。
「お前か……幾久になにしちょるんか」
え?知り合い?と驚き幾久がのっぺらぼうを見ると、廊下の明かりの中、のっぺらぼうは頭の部分からジッパーを下げた。
下げられたジッパーからは普通に人間の顔が出てきて、しかも幾久とそう変わらない年齢に見える高校生くらいの男だった。
そして親指を立てるとやたらにこやかな笑顔でこう言った。
「オッス!おら時山!トッキーって呼んでくれよな!」
「と……とき……?」
まだ事態がよくつかめず、高杉にしがみついている幾久に久坂はため息をついて、山縣はまるで大切なフィギュアをへし折られたように、真っ青な顔をしていた。
「ねね、いまなんかすごい音と声がしたけど、一体……」
風呂上りの吉田が廊下へ来て、そこで状況を見ると「あちゃあ」という顔をしていた。