右往左往[番外編]

このお話は「右往左往」の本編直後(続き)のお話になります。

マスク・ド・カフェへようこそ!

高杉、久坂、吉田の協力なんだか邪魔なんだか、を得て、(いく)(ひさ)は新しい眼鏡を手に入れた。
レンズ代、諸費用コミで無事二万円の予算におさまり、請求は眼鏡屋さんが幾久の父に直接するとのことだった。初めて自分で選んだ眼鏡に、幾久は嬉しくてたまらない。
眼鏡なんかどれでもいい、と思っていたけれどやっぱり気に入った、かっこいい眼鏡となると、はやくそれに変えたくてしょうがなかった。
それに、視力もちょっと違っていた。
眼鏡屋さんがこまかい補正などもしてくれたので、今のよりもっとちゃんと見える眼鏡になる。
作るのに時間がかかり、出来上がるのは一週間か十日後になるらしい。出来たら寮に連絡をくれるそうなので、それまではこのださいと評判の眼鏡のままだ。
「楽しみだねー、あれよく似合ってたし、絶対にいいよ!」
吉田が言うと、高杉が言う。
「無難じゃ」
「ハルの選ぶのはちょっとアレでしょ、お洒落だけど制服に合わないよ」
「高校生にはどうかと思うけど」
久坂が言うと、高杉はむっとする。
「あっちのほうが絶対にええ」
確かに高杉の好みの眼鏡は格好いいけど、フレームだけで二万円もする。レンズ代が足りない。
「おれら眼鏡、いらねえもんな」
な、と言う吉田に幾久は驚く。
「え?先輩らって全員裸眼なんですか?」
一人二人はコンタクトかと思っていたのに。
「うん、ガタが目が悪い。いっつもしかめっ面してんの、見えないからだよ」
「……そうだったんすか」
それであんなに、ゲーム機に顔を近づけてゲームをしているのか。
「コンタクト入れてゲームしたら、目が疲れてゲームする時間が減るから嫌なんだって」
「どんだけゲームしたいんすかガタ先輩」
さすがオタクだと幾久は呆れる。
「だから眼鏡すんのも、授業の時だけじゃないかな。あと、たまにコンタクトしてるけど」
そうなのか、知らなかった。
幾久の眼鏡を買い終わり、商店街を歩いていると、高杉が足を止めた。
「おい、コーヒー飲まんか」
「あ、いいねー。いっくんは?」
「え?でもここ、喫茶店じゃないんすか?」
「喫茶店だよ?」
コーヒーなら寮に帰れば飲めるのに、わざわざ?と首をかしげる。
「高いんなら、嫌っすよ」
「高くない、高くない。先輩達のオゴリ」
「そういうわけにはいかないっす」
父にも、いくら同じ寮でもそういうことは良くないから断るように言われている。
「あ、大丈夫。(おおとり)クラスはね、コーヒーチケットあるから」
「は?」
吉田が財布から、チケットを出してみせる。
「じゃーん!」
確かに『無料』と書かれたチケットだ。
店名は『マスク・ド・カフェ』とあり、まるっこい、かわいいキャラクターの絵がついていた。
「この店もウチの卒業生がやってるんだ。で、学校と提携してて、鳳クラスの生徒は勉強とかの為に必要だからって、一定枚数のチケットが貰えるの」
「すごいっすね」
相変わらず、この学校の飛ばしっぷりは半端ない。
鳳は格が違うと何度も聞いたが、本当にそうだ。
「おれらはこのチケット使うし、同じコーヒーは百五十円なんだ。だったらおれら全員で五十円ずつ。五十円なら奢ってもいいじゃん」
「まあ、それくらい、なら」
いいかな、と幾久も思うので頷く。
「よっし!じゃあいっくんをご案内!」
どんな喫茶店なのかな、と幾久は少しわくわくした。


その店は、商店街の通りにあった。
商店街は大抵、城下町のイメージにあわせて和風の雰囲気だったけれど、その店もそうだった。
入り口は田舎の家の玄関のように引き戸で、店の傍にメダカの入った大きな陶器の鉢がある。
引き戸は開けっぱなしで紺色の暖簾が掛かっていて、真ん中にはひらがなの白文字で『ますく・ど・かふぇ』と書いてある。
和風のカフェなのかな、と思って入ると、高杉がおもむろに壁にかけてあった木槌を取り、柱に打ち付けてあるゴングを叩いて鳴らした。
カーン、というプロレスでよく聞く音が鳴り響くと、店内の奥にある四畳半の奥で寝ていた人が「へーい」と返事をした。
「マスター、コーヒー四つ。無料が三つと、本日のがひとつ」
「はいよっと!」
勢いよく起き上がった人を見て、幾久は驚き、びびる。そこに居たのはマスクをかぶった、どう見てもレスラーの人だったからだ。
「うわ!」
「はは、いっくんビビッてる」
「……びびるでしょ、そりゃ」
喫茶店に入ったら、マスクマン。体はむっちむちだ。
おまけに凄く、体が分厚い。身長は久坂より低いけれど、それでも体が厚いので大きく見える。
頭に赤色、顔の部分に黒い模様があって、全体は白い。額にどっかで見たマークも入っている。
酒屋の人がよくしているような、紺色で、腰に結ぶタイプのエプロンをしていて、そこには暖簾とおそろいのデザインで『ますく・ど。かふぇ』と描いてあった。
「お、鳩の新入生か!よろしく!俺はマスク・ド・マスターだ!マスターって呼んでくれ!」
「よ、よろしく……」
右手でぎゅっと握手される。
痛くはないが、手も分厚い。まるでグローブをした人と握手したみたいだ。
(体を鍛えたら、手も厚くなんのかな)
そう考えていると、高杉が言う。
「おいマスター、コーヒー」
高杉が呼ぶと、マスクマンは「勝手に入れろ」と言う。高杉は舌打ちすると、勝手に中へ入っていく。
「い、いいんすか?」
こんなマッチョに対してなんて態度を取るんだ、と幾久は焦るが、高杉が言う。
「よしひろ!だからコーヒー入れろって!」
「もー、本名言うなよ、つまんねえなあ」
のそっとマスターが動き、カウンターの上にあったコーヒーメーカーのコーヒーを入れ始める。
久坂と高杉は店の左側にある、窓際と壁に沿ってL字に備え付けられたソファーに座り、幾久と吉田は一人でかけられる椅子に座る。
「ほらよ、コーヒー。あ、鳩の君にはマスターからおまけね!」
幾久に向かって、マスターは何かを投げ、幾久はそれを受け取った。
「あ、アリガトウゴザイマス」
紙に包まれたそれには『鶴の子』と書いてある。
銘菓、とあるのでお菓子らしい。
「あ、いいなーいっくん、マスターおれにもちょうだい!」
「うっせ買えよ鳳」
「いっじわるいー」
むくれる吉田に高杉が財布から五百円を出す。
「三つと幾久の」
「高杉様、太っ腹―!マスター、鶴の子三つと、いっくんのコーヒー代ね」
「えーと、コーヒー百五十円と、鶴の子ひとつが百円で……」
「鶴の子百円が三つで三百円!それにコーヒーが百五十円で合計四百五十円!よってお釣り五十円頂戴!」
吉田が言うと、マスターは電卓を叩いて五十円を渡した。
「はい、まいだりー」
「ほいよっと」
吉田が鶴の子というお菓子を三つ、高杉と久坂と自分の前に置く。
マスターはカップに三人分のコーヒーを入れたが、幾久の分はない。
「あれ?いっくんのコーヒーは?」
「マスターの手だてをサービスするぞ!」
にこっと笑顔を見せてマスターがなぜか、マッチョがよくやるポーズをいくつも取っている。
「うわー、ほんっとえこひいき」
吉田が呆れると、マスターが豆をがらがらと挽き始める。
電動のコーヒーミルだが、すごい音がする。
コーヒー豆を挽いている間、マスターは謎のポーズを取り続けているが、三人は完全にスルーしている。
暫くすると、マスターがコーヒーの豆をまとめ、ガラスサーバーの上に陶器のドリッパーをのせ、そこにフィルターを敷く。
アンティークな雰囲気のポットは銅だろうか、金属の色をしている。
ゆっくりとお湯が注がれ、コーヒーが落ちていく。
「ほい、どうぞ」
マスターがコーヒーを運んできてくれた。
「あ、ありがとうございます」
皆のコーヒーは、コーヒーメーカーのものだが、幾久のものはマスターが入れ、おまけにカップの模様も違う。
「マスターほんとえこひいき」
「たりめーだ。てめーらみてえなむかつく鳳じゃねえもん。鳩だもん。後輩だもん」
鳳、鳩、は報国院高校でのクラスの名前だ。
クラスが違うとネクタイの色が違うので、誰がどこのクラスに所属しているのか一目で判るようになっている。
二年の高杉、久坂、吉田は三人とも一番成績ランクが上の『(おおとり)』で、幾久はその次の『(たか)』の下にあたる『(はと)』だった。その下が更に最低ランクの『千鳥(ちどり)』になる。
マスターが幾久に言う。
「あ、でもそれマスターから鳩のいっくんへの入学祝だからね!次からはちゃんとお支払い頂くからね!」
いつのまにかマスターにまで『いっくん』呼びされているが、お菓子を貰ったのでそこはスルーした。
「あざっす」
ぺこっと幾久が頭を下げる。
「ホラみた?このかわいさ!素直さ!鳳にはないでしょ!」
どうもマスターは、鳳にこだわりがあるらしい。
吉田が幾久に言う。
「万年鳩だったそうだから、鳩贔屓なんだよ」
成る程、と幾久は納得するが、吉田はマスターに言った。
「でもさあ、マスター、言っとくけどいっくんの実力、多分鳩より上だよ?マスターが仲間と思っても多分前期だけの仲間よ?」
「え、マジで?だったら淹れなかったのに」
「マスターひっで」
思わず黙った幾久に、マスターはばんっと幾久の背中を叩いた。
「冗談だ!上を目指すのはいいことだぞ!」
「……あざっす」
他になんと言えばいいか判らなかったが、痛む背中をさすりながら、幾久はコーヒーを飲む。
ゆっくりと店内を見渡すと、マスターはマスクマンだけど店内は和風のいい雰囲気の店だった。
カウンターは茶色の、木で出来た雰囲気のあるもので、椅子もテーブルもレトロな雰囲気だ。
いつか家族で行った軽井沢に、似たような雰囲気の喫茶がいくつもあったなあ、と幾久は思い出した。
さっきマスクマンが寝て居たのは段差のある四畳半のスペースだった。
座卓と座布団が寄せられているが、お座敷でコーヒーを飲むのだろうか。
「あの」
「何?何?」
幾久はずっと気になっていたことを尋ねた。
「あのマスターって、本物のレスラーですか?」
「ああ、コスプレってこと?」
幾久は頷く。吉田が笑いながら教えてくれた。
「いやいや、よしひろは元々ガチのプロレスラーだよ。で、なんか医療事故で選手生命絶たれちゃったんだって」
「え?」
吉田は軽く言っているが、とんでもないことじゃないだろうか。
しまった、またオレ話題の選択間違えちゃったんだろうか。
そう思う幾久に、吉田は気にせずに話を続けた。
「でも今は社会人でやってるよ。祭りの時とかイベントがあるんだけどさ、あの同じマスクで」
「同じじゃねーよ、これはプライベート・マスク!試合のときは試合用のマスクしてんじゃねえか!かっこいいヒラヒラした、ベロついてんだろ!」
マスターが首元を指でひらひらさせて言う。
「かっこいい?」
吉田が首を捻る。
「かっこいいだろ!」
マスターが言う。
「つか、よしひろ、なんで話題に入ってくるんだよ。聞いてんじゃねーよ」
高杉の態度は相変わらず酷いが、マスターは気にしていないらしい。
「ハル、いっくんが引いてんじゃん」
態度、態度、と吉田が言うが、高杉はむっとしたままだ。よしひろ、ではなくマスターが笑いながら、カウンター越しに幾久に言った。
「コハルちゃんって、俺に一度も勝てた事がないから俺の事嫌いなんだよ、いっくん」
聞いていた久坂が苦笑する。
「まあ、そうなんだよね」
「勝てた事がない、って?何にっすか?」
「幾久黙れ」
え、聞きたいのに、と思うとマスターが言う。
「ひととおりだよ。柔道、空手、合気道、剣道。まるっと負けてる」
「うるさい黙れ、馬鹿よしひろ」
「あれれ~?いつもみたいに鳩って言わないのはいっくんに気をつかってるの?ひゅうう、先輩かっこいい~」
あ、この人こういう性格なのか、そりゃハル先輩は嫌いだわ、と幾久は思う。
「幾久、お前さっさと鳳に来い。でねえとよしひろにダメージ与えてやれん」
「ダメージ受けるんですか?あの人」
強そうだし、気にしなさそうなのに、と思うが三人は頷く。
「一番効果があるかなあ、それが」
「成る程……」
よく判らないけれど、高杉の機嫌を損ねない為には必要なのかもしれない。
「でもすごいっすね、プロ」
プロレスとか、プロのそういう人を見たことがない幾久は素直に感心すると、高杉が「余計な事を言うな」とぼそっと呟く。
「お、興味ある?だったらね、今度ゴールデンウィークに祭りがあるんだけど、会場で試合するから是非見に来て!」
「幾久は興味ねーってよ」
「俺は鳩のいっくんに聞いてるんですぅー」
高杉の言葉にマスターが返す。
なんだかすごく、大人気ない。
「毛利先生と同じ匂いがしますね、あのマスター」
「よく判ったね、あいつら親友」
吉田の言葉に、なんだかああやっぱり、とすごく納得できた。
あれ?でも、ということは、やはり『杉松』さんとも仲が良かったのだろうか。ちらっと久坂を見るが、久坂は顔色ひとつ変えていない。
余計な事は尋ねまい、興味はないとはっきりさっき吉田にも伝えたばっかりだし。
「えと、なんかすごい沢山、できるんすね、ハル先輩」
「んあ?何がだよ」
まだ機嫌が悪そうだ、とひきつる幾久だが、負けじと尋ねた。
「だって、空手とか、剣道とか?やってたんすよね?」
高杉ではなく、久坂が答えた。
「うん、この近くの神社に道場があるからね。一通り、僕とハルはやってるよ」
「すごいっす」
そういった習い事をやったことがない幾久は素直に感心する。
そういえば父も、剣道かなにかで賞を取った事があるような事を聞いた事があったような。
「で、その全部で俺に負けちゃったんだよね、コハルちゃん」
「うるせえ黙れ馬鹿よしひろ万年鳩やろー」
「しょうがないよね、実際、本当に勝てた事ないんだし」
「黙れ瑞祥(ずいしょう)
「まあまあ、ゆっくりコーヒー飲めないじゃん、落ち着いて飲もうって」
お菓子の包装をめくりながら吉田が言う。
幾久も折角なのでお菓子を食べてみた。
中身はふわふわのやわらかいものだ。
なんだろ、と思い食べてみると、それは餡子の入ったマシュマロだった。
「やわらかっ」
雰囲気は和菓子のようだけど、そこまでじゃない。
餡子も普通の小豆餡ではなく、黄色っぽい色だ。
白餡かな、と幾久が切り口を見つめていると、吉田が言った。
「それね、中身、黄身餡だよ。卵の」
「黄身餡!」
そんなものがあるのか、と幾久は感心する。
「あ、鶴の子って、鶴の卵?」
白い、丸い卵のような外見のマシュマロに、中央に丸く黄色い餡があると、確かに卵に見える。
「へえ、案外コーヒーといけるっすね」
マスターが入れてくれたコーヒーは、さすがちゃんとしているのか、味が濃くて、苦いようで苦くない。
甘いお菓子と一緒だと、余計においしい。
「いっくんは見所ある奴だな!」
そうマスターはにこにこしている。そのマスクのデザインを見て、幾久はお菓子を見る。
マスターのマスクは、頭の部分が赤くて、目の周りは羽根のような模様もある。
そして鼻から口にかけて、鮮やかな黄色の部分で囲まれている。
じっと見つめて、幾久が言う。
「ひょっとして、鶴?」
マスターが親指を立てて、にっこりとうさんくさい程の笑顔を見せた。
「正解だ!やはり見所があるな!」
ああ、なるほど、それでコーヒーカップに鶴のデザインがあって、鶴の子っていうお菓子が出るのか。
「なんで鶴なんすか?」
幾久の問いに、マスターは言う。
「だって俺、報国院の卒業生だもんよ」
どういう意味だろう、と考えていると吉田が言う。
「校章、校章」
「あ、そっか」
報国院男子高校は、ある神社の敷地内にあって、校章もその神社のマークをモチーフにしている。
「そっか。報国院が鶴だから、鶴なんすね」
「そそ。絶対にマスクマンになって、絶対に鶴のデザインにするって、報国の頃からずーっと考えてたからな」
すごいなあ、と幾久は感心する。
本当にここは報国院を好きな人が多いんだな。
「すごいっすね。オレ、将来のそういう事、全然考えたことないや。進路っつうか大学の事ばっかりで」
「おいおい、鳩がそういう世知辛い事言うなよ」
マスターが言うが、高杉が言い返す。
「馬鹿は黙ってろ。幾久は頭いーんだよ」
「そうだろうな。なんか杉松にも似てるし」
マスターの言葉に一瞬、幾久の表情が固まって、それを目ざとく久坂が見つけた。うわ、どうしようと思ったが、久坂は静かに、微笑んだまま言う。
「うん、僕もそう思ってた」
「だろ?DA、RO?」
マスターは変なイントネーションを付けて言う。
そして更に続けて言った。
「でもやっぱさあ、そうやってコーヒー静かに飲んでると瑞祥まんま杉松だな!やっぱ血は争えねーな」
「そう?」
久坂が言うと、マスターはうん、と頷く。
遠くを見るように、手を額の上に当てる。
「こうしてさ、カウンターから見っと、ちょっと姿勢悪いのがわかんだけど、その角度とか、頭の形とか、本を読んでた杉松まんまでさあ。お前らほんっと、頭の形同じなのな!」
なにがおかしいのか、げらげらと笑うマスターに、久坂は黙っている。
カーン、と鐘の音が響く。新しい客が来たらしい。
「マスター、コーヒー。いつものセット」
「おいっす!少々お待ちを~」
マスターは豆の準備を始める。
その様子を幾久は観察したが、まず豆を袋から出して、カップをはかりにのせてコーヒーをそのカップに入れる。
重さを量り終わったら、それをコーヒーミルに入れ、その間にお湯を沸かし始める。
「一々、豆、ああしてるんですか?」
がらがらとやかましい電動ミルの音の中で、幾久は吉田に尋ねると、そうそう、と教えてくれた。
「おれらの飲んでる無料チケットのは、あのコーヒーメーカーのやつで、買ったら一杯百五十円なんだけどさ、いっくんがサービスしてもらったような手で入れる奴は、ここのマスターいちいち豆を挽くところからやるんだよ。金額も違うし、豆も選べる」
あとマッチョのポーズも、と言われてカウンターを見ると、さっきのようにコーヒーが砕けるまでの間、また何度もポーズを取っている。
「ああ……あれデフォルトなんだ」
「マスター曰く、『サービス』らしいけど、いらんサービスだよな」
「意味わかんないっす」
幾久は言うが、吉田が続ける。
「そのマスターのサービスを目当てに来る客も居るってんだから、世の中ってわかんないよな」
「世の中、広いっすね」
「あと、ここのコーヒー、追加でいろいろ入れられるんだけどさ。ミルクとか、ホイップとか」
言いながら吉田がメニューをめくり、そのなかの一つを指差す。
「プロテイン?」
コーヒーに追加で入れられます!とかあるけど、そんなの入れたら味に影響でないんだろうか。
客に対して、ひとつひとつ豆からコーヒーを入れているというのに、変なことをするマスターだな、と幾久は思った。


客が少しずつ増えて来たので、それを見た高杉が、「ぼちぼち帰るか」と席を立った。
マスターが「まいだりー」と挨拶して、高杉も「おう」と横柄にだが挨拶はする。
最後に幾久が店を出ようとしたら、マスターが「いっくん!」と呼び止める。
なんだろう、と近づくと小さな手提げをひとつ渡された。
「これ?」
「中、鶴の子。気に入ったっしょ?」
にこにこと笑いながらマスターが言う。
「いや、貰えないっす」
首を横に振って、マスターは幾久に言った。
「麗子さんへのお土産だから。ついでに皆も食べたらいい」
「……あざっす」
寮母の麗子さんへのものと言われたら、受け取らないわけにはいかない。幾久はお礼を言う。
マスターが、ちょいちょい、と幾久を近くに呼ぶ。
なんだろうと顔を近づける。
「あのさ、コハルと瑞祥のこと、よろしくな」
「え?」
くしゃっと、マスターは笑ってみせた。
「俺さ、あいつらの兄貴がわりだから。ほら、あいつらって癖あんだろ?」
「ああ……まあ、けっこうひどいっすよね、久坂先輩」
するとマスターは一瞬驚いた顔をした。
「酷い?瑞祥が?」
「違うんすか?」
てっきり、久坂の事を言っているのだと幾久は思い込んでいた。
「いや、てっきりコハルがキッツイかもって思ってたんでなあ」
マスターは意外そうに言う。幾久は答えた。
「確かに、ハル先輩のほうが当たりはキツイっすけど、一番気を使ってくれてます、多分。栄人先輩も、すっごいいろいろやってくれるし」
山縣は余計なことしかしていないが。
「うーん、瑞祥は?」
毛利先生と親友というなら、久坂の事はよく知っているだろうから幾久はしっかりと文句を言った。
「久坂先輩はひでーっす。けっこういじめっ子っす。冗談洒落になんなかったり、変な嘘教えてくるし、ハル先輩と投げとばしあいの喧嘩してたし」
「……!そっかー、そっか、そっか」
急にマスターは頷くと、幾久の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「なんすか」
「いつでもおいでね。そだ、これあげとこ」
マスターはなにかごそごそすると、チケットを数枚幾久に渡した。
それは、吉田が持っていたこのカフェの無料チケットだった。
「いや、貰えないッス」
「いやいや、そうじゃなくてさ」
マスターは言う。
「あいつらのさ、寮での様子教えてくんない?ホラ、俺嫌われてるし」
「スパイっすか」
「人聞きの悪い」
「でもスパイっすよね」
「……うーん、まあそうかなあ」
幾久は暫く考えて、カウンターの上に貰ったチケットを置く。
「やっぱいらないっす。そんな事できないっすし、先輩達の寮の様子なら、さっきとあんま変わらないし。スパイする意味ないっすよ」
じゃ、失礼します、とぺこっと頭を下げた幾久に、マスターが言った。
「いっくん!報国では『失礼します』じゃなくて、『ご無礼します』って言うんだぞ!伝統!」
へえ、そうなのか、と幾久は店を出る前に「ご無礼します」と言うとマスターが怒鳴った。
「声がちいさいぞぉ!」
思わず幾久は、店内に怒鳴った。
「ご無礼、しまぁす!」
大きな声に、どうだ、とマスターを見ると、びっくりした顔のお客さんたちの中、マスターはまたあのうさんくさいような笑顔で「合格だ!」と親指を立てていた。



店の少し先にある、歩道と車道の間に据えてあるガードパイプに高杉たちは腰をひっかけて待っていた。
「なんか貰ったの?」
幾久の手提げを見て久坂が尋ねる。
「鶴の子。麗子さんにって」
「なるほど」
じゃ、帰るか、と全員が歩き出す。
暫く歩いて、マスク・ド・カフェから遠ざかって、幾久は久坂と高杉と吉田に言った。
「マスターって面白い人っすね」
高杉が言う。
「あいつは馬鹿なだけじゃ」
ふん、と言い放つ高杉に、うん、確かにちょっと馬鹿かもな、と幾久は考えた。
「マスター、ハル先輩に嫌われてるって落ち込んでましたよ」
「はぁ?あいつのあの態度で好かれるわけねーだろ!」
うん、確かにそれもそう思う、と幾久も判る。
大人気ないし、高杉が嫌がる『コハル』ちゃん呼びをするし、負けず嫌いな高杉に向かって、勝負で勝った自慢をするし。
でも、多分、本当に気になっているのだろう。
「マスター、オレにスパイしろって」
「は?」
「スパイ?」
「どういう意味?」
三人が首をかしげているので、幾久は説明した。
「久坂先輩とハル先輩の様子教えろって」
「あんの馬鹿……っ」
高杉先輩が怒っている。だから暫く進むまで教えるのを待ったのだ。
店の近くでそんなこと告げようものなら、絶対に店に怒鳴り込むだろうと思ったけれど、幾久の予想は当たっていたようだ。
「で、いっくんはそれ引き受けたの?」
久坂がそんな事を尋ねる。こういう所が本当に、久坂は人が悪いと思う。
「引き受けてないし、引き受けてたらこういう事言わないし、言ってても正直に『引き受けました』とかいう訳ないじゃないっすか」
全くもう、癖があるのは久坂の方なのに、と幾久は思うが、久坂は幾久に言う。
「だっていっくん、嘘つかないじゃん」
「……!」
「まあそうだよね、いっくん、すげえ真面目だし」
そう言う吉田に、高杉もまあな、と頷く。
「確かに幾久にゃ、嘘をつくなんて芸当はできんじゃろうな」
「そんな人を馬鹿みたいに」
むっとする幾久に、まあまあ、と久坂が言う。
「いいじゃないの。僕ら、信用してるってことだよ?」
「はいはい、ワカリマシタ」
「うわ、いっくん反抗的」
そういう久坂に幾久は言い返す。
「最初にオレを騙したの、久坂先輩じゃ……」
高杉とホモのふりをして、そのせいでこっちは誤解して、高杉先輩もガチで切れてて。
「……あれ?」
でも最初に幾久を騙したのは、久坂じゃない。
「思い出した。最初は栄人先輩じゃん」
「はい、おれでしたー!」
通学路だと騙して、いつも通う道じゃなく、住宅街とはいえ山の上を通るとんでもない道を『通学路』って騙したのは吉田だった。
「すっかり忘れてた。あれひどいっすよ!」
都会育ちで、そんな山が身近にあるとかいう感性のない幾久にとって、『山越え』なんて聞くだけで嫌になるのに。
「お、そうじゃ。久しぶりに山越えするかの」
高杉が言う。
「ああ、いいね。気分転換に歩く?」
久坂が言う。
「さんせーい!」
吉田が両手を挙げて賛成する。
「えー!嫌ッすよ!」
冗談じゃない、と幾久は反対するが。
「じゃ、多数決!山登って、帰りたい人―!」
ばっ、ばっ、ばっと手が三つ上がり、幾久は両手をしっかり下げていたが。
「はい、じゃあ山からに決定!」
「えー……マジっすか……」
がっくりと幾久はうな垂れるが、多数決に負けてしまっては仕方がない。
「貧弱だなあ。たいしたことないじゃん」
吉田は言うが、幾久は首を横に振る。
「先輩らは慣れてるから、そういう事言えるんす。オレ、ほんっとに嫌っす」
「まあまあ、郷に入りては郷に従え、ってね」
楽しげな久坂に幾久は言い返す。
「先輩達が法律じゃないっすか……」
幼馴染の三人コンボなんて、幾久一人で太刀打ちできる相手じゃない。
「一年一人って、不利っすよ」
「しょうがないじゃん。中期に期待しなよ。ひょっとしたら他の一年生が、御門に引っ越してくるかもよ?」
そうだった。
確かこの学校は、学期毎に成績によってのクラスがえもあるが、寮の移動も希望すれば出来ないこともなかったのだった。
「タマちゃんは絶対に、御門に来たがるだろうしねえ」
「うええ……」
苦手な名前を呼ばれて幾久は嫌な顔をする。
タマちゃんとは、一年鳳の児玉のことで、今は別の寮に入っている。
が、昔から『鳳』『御門寮』の二つに憧れていて、とにかく御門寮に入りたくて仕方なかったらしい。
御門寮は鳳クラスでないと入れないという噂があったのに、鳩クラスの幾久一人が所属しているので逆恨みされているのだ。
「でも、児玉君は桂先輩になついてるし」
桂先輩、とは三年鳳の桂 雪充のことだ。
二年生の終わりまで御門寮に居たのだが、問題児をまとめるのが上手いとかで他の寮に引き抜かれてしまった。
本人は御門に戻りたがっているが、難しいかもしれないらしい。
桂は久坂とはまた違ったタイプのイケメンで優しく、他人をまとめるのが確かに上手い。
高杉と久坂を上手にあしらうというのだから、その手腕は相当なものだ。実際、幾久も桂 雪充には懐いている。桂と一緒の寮がいいなと言って高杉を拗ねさせたくらいには。
「提督でも中期までじゃからのう。三年後期なら、いけるんじゃないのか」
提督、とはこれもこの報国院の独特の肩書きで、寮の『寮長』の意味になる。
本来は『寮長』だったのに、いつの時代からか、そういう呼び名になったらしい。
「ま、ひょっとしたら誰かが来るかもだし、来ないかもだし」
やっとこの面々に慣れはじめたというのに、増えたり減ったりがあるのかな、と幾久は考える。
あの御門寮に誰かが、例えば児玉とかが入ってくるのは想像できない。
どんな風になるのかと無理矢理考えたら、山縣と児玉が喧嘩する様子しか浮かばなかった。
「ガタ先輩と喧嘩しそう……」
自分もそれをやらかしたので、幾久が言うと、吉田が教えてくれた。
「喧嘩しないほうが珍しいよ。つか、ガタと折り合い悪くて出て行った奴もいるしねえ」
「はは、らしいというか」
山縣は面倒くさい性格だし判り難いし自分勝手だが、あれはあれで筋が通っているので別にそこまで嫌いじゃない。
確かに余計なことまで言いすぎる感はあるけれど。
「オレ、嫌いだけどそこまでじゃないっすよ、ガタ先輩」
さんざんな目に合わされたけれど、後からお詫びなのか、PSPのモンハンのレベル上げをしてくれた。
よえーわ、最弱だわ、てめえモンハン舐めてのか、と散々な言われっぷりだったが、結局そこそこまでやってくれていた。
「やっぱ一人っ子同士は、なんか繋がるのかなあ」
久坂が言う。
御門寮の中では一人っ子は幾久と山縣の二人だけらしい。
「あ、でも僕今一人っ子じゃん!仲間!」
久坂の笑えないジョークに吉田が言う。
「やめたげ瑞祥。いっくん固まってんじゃん」
「ほんっと真面目だよね、いっくん」
「本当にな」
「真面目真面目うるさいっすよもう」
はあ、と息を吐きながら幾久が言う。
駄目だ、喋りながら誤魔化していたけどやっぱりこの道はキツイ。
家がたくさんあるけど、ここに住んでいる人たちは本当に毎日ここに帰ったりしているのだろうか。
それとも慣れてしまって鍛えられたのかな。
「うう、さっきプロテイン飲んだほうがよかったのかな」
疲れたあまりそんな事を言い出す幾久に、吉田が「やめなよ高いよ、きなこでいいじゃん」と言い出す。
きなこでもプロテインでもなんでもいい、ほんときつい。
そう考えながら歩き続けていく。
もう景色を見る余裕もなく、やっと山が下りになると幾久はほっとした。


さて、やっと寮に帰り、着替えをすませ、疲れたけどまあいいかあ、とごろんと横になった所で、久坂がぼそっと幾久に告げた。
「いっくん、本当に真面目だよね。そんなに山越え嫌だったら、多数決も何も気にせずに、一人でいつもの道から帰ればよかったのに」
「あ」
今更そんな事を言われて、ほっとしたはずの気持ちが急に悔しくなって、思わずごろごろ転がってしまった。

「やっぱり、スパイ引き受けたらよかった!」
余計な事をするのはやっぱり久坂じゃないか、と思って怒鳴ると、久坂が楽しそうに笑っていて、その様子を見ていた山縣が、一旦部屋から出てきて、おびえてそっと扉を閉じた。

久坂には高杉が拳骨をひとつ入れてくれたので、いつかシュークリームをハル先輩にだけ買って帰ろう、と幾久は決心したのだった。


[マスク・ド・カフェへようこそ!]終わり