右往左往

(3)ゆく春

敷地内に住んでいるのに、麗子さんを送ってくるととても紳士な態度で宇佐美も一緒に御門寮を出た。
門の施錠があるからと、結局吉田が一緒に外へ出たが。
山縣は早々に部屋に引きこもった。
そりゃそうだろう、これ以上皆と一緒に言われたら文句とお説教のフルコースだ。
「大変だったねーいっくん」
迷ったルートとそれまでの経緯を説明すると、久坂も高杉も同情してくれた。
「や、でもホント、ちょっとだけ面白かったし。それにロンドンバスとかまさか乗れるとは思わなかったし」
「ロンドンバス?!お前、丁度それに乗ったんか!」
高杉が驚いて言う。
幾久が頷いた。
「なんであれ、走ってるんすか?」
「なんかのプロジェクトで貰ったらしいぞ」
「貰えるもんなんすか?」
「英国領事館があったから、そのあたりの関係じゃない?」
久坂が言う。
そういえば長州市はそういう歴史的なものもあれこれあったっけ、と幾久は思い出した。
高杉が更に説明する。
「あれ、整備して土日だけ運行しとる。けど、冷房ないからの」
「ないんすか?!」
いまどき冷房がないなんて、と幾久は驚く。
「ロンドンバスにはないらしいよ。ロンドンってそんなに暑い日が無いせいだろうね」
と、久坂が言う。確かに思い返せば、バスの中に扇風機がついていたような……
「あと、海岸線走ったんすけど、向こうに見えるの九州なんですよね?マジで!」
道路のすぐ傍を走りぬけるのなんか、けっこう興奮した。鎌倉のようだったけれど、海が綺麗でしかも狭い海峡を大きな船が通っているので迫力もあった。
いつかじっくり見に行きたいくらいだ。
「そうそう、向こうに見えるのが門司の太刀の浦。高杉晋作ゆかりの地でもあるよ」
「え、そうなんすか?ハル先輩」
高杉晋作の子孫である高杉にそう尋ねるが「知らん、面倒くさい」と返ってくる。
説明はしたくないらしい。
「時期が丁度良かったね。冷房がいらない時期にロンドンバスで海岸線って、ちょっとした観光みたいで」
「そうっす。だからまあ、いいかなって。携帯忘れたから写真撮れなかったのが惜しかったけど」
そこではた、と思い出す。
「そういや途中で、なんか変わった施設があったんすけど、あれ何すかねえ」
「なになに、何の話?おれもまぜて!」
門の施錠が終わったらしい吉田が割り込んでくる。
「幾久、ロンドンバスに乗ったんじゃと」
高杉が言うと、吉田が驚く。
「へえ!タイミングよかったねえ」
幾久も頷いて言う。
「丁度二階の席あいてたんで、そっちに乗ったらすごかったっす」
また乗りたいが、冷房がないのは辛い。
「そうそう、それで変わった施設って?水上警察所のところ?」
「水上警察所?」
なんだそれ、面白そう、と幾久は食いつく。
「なんか、白い三角のものが屋根にばーってついてて」
大きな換気扇の扇を上に向けたような形になっていた。
あれ動いたりするのかな、水上警察所なのかな、とわくわくしていると、吉田が言う。
「あ、それ大きな警察署の近くだろ?市営駐車場」
「え?駐車場?あの白いのは何なんす?」
「……飾り?」
小首をかしげていう吉田に、幾久はなんだあ、とがっかりする。
「なんか変わった建物だと思って、何の役割なのか気になったのに、ただの飾りかあ」
「ああ、確かにあれ、なにかなあって思うよね」
久坂も頷く。
えーと幾久はがっかりした。
「てっきり動いて風力発電とか、そんなところまで考えたのに飾りとか。なんで無駄に海ナイズするんすかね。オレ、なんか施設かと思ってすごい期待したのに」
「海の町だから無駄に海ナイズするしかないっていうか。ふぐナイズっていうか。そういやいっくん、ふぐの公衆電話見た?」
「なんすかそれ」
そんなもの見てない、と思っていると吉田が言う。
「ふぐの形した建物があって、その中に公衆電話があるんだよ」
「嘘だ!そんなん見てないっすもん!」
吉田はこう見えて人が悪いのでそういうと、やはり嘘だったらしい。久坂が言う。
「まあ、確かに栄人のは嘘だけど、ふぐの像が乗った公衆電話はあるよ」
あ、それは本当にあるんだ、と高杉を見ると、何の反応もない。あ、本当か、とほっとする。
「じゃ、宇佐美先輩が、亀山市場のフクヤマって言われてるって」
「あ、それは嘘」
と、吉田が言う。
「自分では説明してるけど、無駄な頑張りだよね」
と久坂も言う。
「自己紹介はなんでもええんじゃないか?」
と高杉も言う。
相変わらず、歯に衣着せずな人たちだ。
「でも、助かりました。あの宇佐美先輩いなかったら、オレ本当に警察行くしかなかったし」
吉田がぎゅっと幾久の手を握る。
「今度から迷ったら、迷わずタクシーで帰ってくるんだよ!」
「でも、タクシー代が」
「大丈夫!この二人、金持ちだから!」
吉田の言葉に呆れ、久坂と高杉が言う。
「おい」
「待て」
「……財布忘れないようにします。あと携帯も」
本当に、それだけはもう絶対に忘れないようにしよう、と幾久は心底、誓ったのだった。




週があけた。

いつもどおりの面々と顔を合わせておしゃべりをして、いろんな事を話した。
幾久のクラスメイトで友人の伊藤や桂は、全員寮が違うので、うちの寮ではこうで、先輩はこんなで、と互いに喋るだけで何時間あっても足りない。
親から離れ、ほぼ生徒だけ、というのが初めてで、まるで合宿がずっと続いている気分だ。
そして幾久は、伊藤にも桂にも質問責めにあってしまう。一年生で『御門寮』に入っているのは幾久一人だし、伊藤は子供の頃から高杉を尊敬していたので、とにかく話を聞きたがっていた。
そうしてまた一日が終わり、放課後になった。
職員室の前を通ると、不機嫌そうな先生の姿がある。
幾久の担任ではないが、伊藤の所属する『報国寮』の管理をしていて、一番成績がランク下のクラス『千鳥』の担任でもある毛利先生だ。
三十歳くらいの年令で、髭をはやしている。
スーツはきちんとしたものを着ているけど、態度と雰囲気が悪い、というか柄の悪い人に見える。
幾久は以前、具合が悪くなった時に毛利先生に学校から寮まで車で送って貰ったことがある。
高杉の幼い頃からの知り合いらしいが、詳しくは知らない。
柄と口と態度が悪いが、悪い人ではない、らしい。
毛利先生は機嫌が悪そうなのに、フンフンとなにかの鼻歌を歌っている。
ぺこっと頭をさげて通り過ぎようとすると、毛利先生が足をとめて幾久を呼んだ。
「おーう、メガネ君じゃねーの。今日も俺のかっこいい車に乗りにきた?タクシー代わりにしてんじゃねーぞコラ」
本当に教師のくせに柄が悪いな、と思いながら幾久が足を止める。
「この前はお世話になりました」
「おう、礼儀正しいな」
「……」
なんていえばいいのか困っていると、毛利が言う。
「お前、迷子になったらしいな」
「うわ。誰に聞いたんすか」
どうしてその事を知ってるんだ、と思ったが、毛利は高杉と仲がいいらしいのでそのあたりだろう。
ニヤニヤしながら「誰だと思う~?」とか茶化すように言ってくるので、幾久はやり返した。
「東京のメガネ君、って久坂先輩のお兄さんの事だったんすね。久坂杉松さん」
「おう誰に聞いた、場合によっちゃぶん殴るぞ」
毛利は以前、幾久を車で送った時に、意味ありげに『高杉や久坂が幾久を構うのは、幾久が東京のメガネ君だから』と言っていた。
その時は訳がわからなかったが、宇佐美にいろいろ聞いた今では意味が判っている。
久坂の亡くなったお兄さんと同じような状況で幾久がこの学校と寮にやってきたから、気になってしかたがないのだろう。
「殴るのは宇佐美先輩にしててください」
「なんだバニーかよ」
けっと毛利が言い放つ。幾久が首をかしげた。
「バニー?宇佐美だからバニー、すか?」
宇佐美、ウサギ、バニー、というオチになっているのだろうか。
毛利が首を横に振る。
「いや、あいつ学生の頃、バニーガールみたいな格好で登校したことあんだよ」
思いがけないことに、幾久は絶句した。
「は?バニーガール、っすか?」
「ホラ、うち基本、鳳はなにしてもOKとかって風潮じゃん」
「いやわかんないです」
確かにこの学校は、完全実力主義というか、成績さえよけりゃそれでオッケー、みたいな風潮があるとは父に聞いていた。だけど、通い始めてまだそこまでの雰囲気は感じない。
「あー、まだゴールデンウィーク過ぎてねえもんな。まあ過ぎたら判る」
「はぁ」
ローカルルール、というかそういうもので、新入生が入学してしばらく、つまりゴールデンウィークが終わるまではお行儀よくしましょうキャンペーンが学校内にあって、それまでは大人しくしているらしい。
つまり、どのクラスの人も大抵きちんと制服を着て学校に来ている。
「つまりうちのガッコは『(おおとり)』クラスなら、もう何してもOKって感じなんだよ」
この学校はクラスが数字ではなく、鳥にちなんだ名前になっている。
なぜ鳥なのか、というと学校の隣にある、というか神社の敷地内にこの学校があるのだが、元々はその神社の神紋をモチーフにして、デザインされたものだという。
実際、校章も一瞬桜のような形に見えるが、実は並んで連なった鶴のマークだ。
制服のシャツのカフスボタンや、礼服の黒いネクタイにはその鶴のマークが全て入っている。
クラスは成績が高い順に、『(おおとり)』次が『(たか)』、その次が『(はと)』、一番下が『千鳥(ちどり)』だ。
『鳳』はとにかく別格で、授業料、寮費は完全無料でしかも成績によっては学習費という名目でお金まで貰えるという、とんでもないクラスだ。
学年でもせいぜい多くて二十人位。割合としては十パーセントもいないくらい。
話には「すごい」と何度も聞くが、東京からの転入みたいなもので、しかも何の前知識もないし、まだ試験も始まっていないのでいまいち幾久には、そのすごさが判らない。
とにかく知識として、『鳳は別格』『なにしてもOK』みたいな風潮があるのは知っている。
制服も、ここのジャケットは英国海軍モチーフのものなのだが、普段はあまり皆ジャケットを羽織らず、上には好きなものを着て通っていいという話は聞いた事がある。
「で、バニーの奴、鳳になってやったのがそれ」
毛利が言う。いつの間にか煙草に火をつけていて、ふぅーっと煙を吐き出している。
え?校内で煙草っていいの?っていうか禁煙じゃないの?先生は別にいいの?この学校ってそれはOKなの?幾久は首を傾げるが、毛利は携帯灰皿をジャケットの内側から出して気にせずそこに灰を落す。
「アイツは途中から鳳クラスに上がったんだけどよ、その初日にやらかしたのがバニーガールみたいな格好で登校っての。制服のベストはそのままで、白い襟だけに黒の蝶ネクタイ、うさぎの耳に制服のトラウザースにブレイシーズ」
この学校はイギリス式の呼び方を踏襲しているので、ズボンはトラウザース、サスペンダーはブレイシーズ、という言い方にしている。
「つまりは下半身以外、ほぼバニーガールのそれだわな。で、学校に来たわけ。生徒は受けたり馬鹿にしたり。俺はどうぜならレオタードも着るべきだろ!って言ったけど、着れるサイズのレオタードが売ってなかったとかで」
「はぁ……」
止めろよ、と幾久は思う。
「先生怒んなかったんすか」
「俺はその頃学生だもん」
「その当時の他の先生っすよ」
「いんや?他の先生は『それ、大体五年に一回くらいしてくるやついるよな』でおしまい。宇佐美がっかりしてたわ」
いやいや、ちょっと待て。
バニーの格好をするのはおかしいけど五年に一度はあんのかよ。そっちのほうがどうかだろ。
「鳳が考えることはあんま変わらないみたいだな」
「鳳ってそんなんばっかなんですか」
「そんなんしたくてすっげえ勉強する馬鹿もいるぞ?」
「理解できないっす」
本当に成績がいいのだろうか、鳳は。父も鳳は大変だと言っていたけど、聞く話がどうも変な武勇伝ばかりで絶対に頭がいいとは思えない。
「バニーはさ、杉松とは親友だったんだよ。ま、俺もだけど」
え、と幾久は驚く。
宇佐美が久坂の兄と友人らしいのは知っていたが、この毛利先生も一緒とは。
驚いたままの幾久をおいて、毛利は更に話を続ける。
二人は職員室の廊下の窓際に移動して、窓枠にもたれて話をした。
「俺らは学生の頃はいっつも一緒でな。特に杉松にとっちゃ、宇佐美は家族みたいなもんだったからさあ。だから余計にこたえてたんだよ、杉松がいなくなったのがな」
ふうー、と毛利が長い煙を窓から吐く。
「ほんっと、いい奴から死ぬってよく言ったもんだよ。俺だって杉松が教師できねえから、かわりに先生やったようなもんだし」
「そうだったんすか」
道理で、毛利に教師は似合わないと思っていた。
「なんつうか、あいつはすげえのよ」
ぼりぼりと後頭部をかいて毛利が言う。
「ほんっと杉松にはすげえ世話になった。アイツ頭よくってなあ。勉強教えて貰わんかったら、俺、高校生の時に学校クビだったかもなあ」
あ、それは想像がつく、と幾久は思う。教師になってもこれなんだから、生徒の頃は酷かっただろう。
「―――オレがその、杉松さんと同じ境遇だから、ハル先輩も久坂先輩も、オレを気にかけてるんすね」
「まあ、全部が全部そうじゃねえけど、大きいだろうな。だからお前が調子こいてたら、とっちみちんにしてやろうかと」
とっちみちんって何だよ、と思いながらも幾久はそんな調子になんか乗りません、と毛利に告げる。
「ま、それっぽいよな。お前、どっか杉松と雰囲気も似てるところあるし。あ、でも杉松はもっとなんていうか、繊細な雰囲気だったから」
「オレが図太いみたいじゃないっすか」
「入寮と同時に三年と喧嘩するやつの、どこが図太くないって?」
入寮日、確かに山縣と喧嘩はしたけれど、どうして知ってるんだ、と幾久はむっとする。
「ストーカー……」
「あん?!生徒の動向に熱心ないい教師だろ!」
毛利が幾久に凄むと、突然怒鳴り声が響いた。
「毛利先生ッ!!!校内で、しかも生徒の前で煙草を吸うなんて、一体何やってるんですか!!!」
「うわやべ、三吉(みよし)
他の先生に怒鳴られ、慌てて毛利は携帯灰皿に煙草を押し付け、さっと携帯灰皿をしまいこんだ。
ういている煙を手で払う仕草をしているが、そんなのでこの煙草くささは消えないだろう。
(やっぱり禁煙なんだ)
幾久が呆れていると、毛利がさっと逃げようとする、その襟首を別の先生が掴みこむ。
見たことがある、確か名前は、そう、さっき毛利も言っていた三吉先生だ。
毛利と同じ位の年の男性教師で、言葉が丁寧で優しいから人気があるはずだが、毛利の前では違うらしい。
「ったく、千鳥の前ならともかく、鳩の前でとか!なにやってるんですか!」
「うわ出たよ、格差差別発言」
「茶化さないで下さい!これからお説教です!来なさい!」
「なにすんだよ!俺は教師だぞ!」
「私も教師です!」
三吉が怒鳴るが、毛利が言い返す。
「俺は先輩だぞ!」
「先輩なのに何やってるんですか!」
毛利の耳をぎゅっと掴んで、三吉先生が引っ張っている。いだだだだ、という毛利を横に、三吉先生は幾久に優しく言う。
「ごめんね、ほんと千鳥の馬鹿教師が迷惑かけて」
「いえ、大丈夫です」
「なんだてめえらひでえな。乃木、大丈夫ってどういう意味だよオラ」
「だから生徒に対して、その態度はなんだって言ってるんですよ私は!」
「いでででで!マジひっぱんな!いてえよ!」
「あの、毛利先生には酷い目にあってないですし、前お世話になりましたし」
あまりに可哀想だし、毛利に助けてもらったのは事実なのでそう助け舟を出すと、毛利と三吉は顔を見合わせる。
「ほら、ほら。な?」
「え?本当に?脅されてるわけじゃない?」
「なんだとひでえな三吉」
「普段の行いが悪すぎるんですあなたは!」
「いででで!いてえって!ひっぱんな!」
ぎゃあぎゃあ騒がしい二人に、もう帰っていいかな、と思っていると丁度そこに、本当にタイミングよく、吉田、久坂、高杉の三人が通りかかった。
「お、丁度いい、コハルちゃん助けろ」
毛利が言うと、高杉が嫌な顔になって言う。
「誰じゃそいつは」
高杉の名前は呼春(よぶはる)だが、幼い頃はコハルと呼ばれていたらしい。
そしてその呼び方を高杉が嫌がっていると教えてくれたのは毛利本人なのに。
機嫌の悪い高杉に、久坂も知らんふり、吉田も「いっくん、帰ろうよ?」と腕を引っ張る。
「じゃ、オレも失礼しまっす」
「ちょ!ちょ待て!」
毛利が必死で呼び止めていたが、しばらくしてぎゃああああ、という蛙が潰れたような声が聞こえた。



四人で一緒に寮に帰りながら、吉田が幾久に尋ねてきた。
「ねえいっくん、モウリーニョと何の話してたん?」
「モウリーニョ?」
モウリーニョは海外クラブチームのサッカーの監督の名前だ。
幾久も父の影響でサッカーはそれなりに好きなのでモウリーニョは当然知っていたが。
「毛利先生って、モウリーニョって呼ばれてるんすか?」
「そうそう、なんか名前が似てるから!」
いや、毛利しか被ってないし、駄洒落じゃんと幾久は思うが、高杉が言う。
「ジョゼ・モウリーニョ」
「ハル先輩、サッカー好きでしたっけ?」
ジョゼ・モウリーニョとは、その監督であるモウリーニョのフルネームだ。
「いや知らん。でもあの毛利先生の名前も同じ」
「同じ?」
外人と同じなんてありえるのか?と幾久が思っていると高杉が言う。
「あいつの名前は『毛利じょうせ』って言うんじゃ。常識の『常』と世界の『世』、で、『常世(じょうせ)』」
「ジョゼ・モウリーニョ……」
毛利常世。じょうせ、もうり。
ぶはっと幾久が噴出した。
「すっげえ、マジで?!本当に?!」
「マジマジ。本当に」
ああ、確かにそれは被りまくりだ。モウリーニョ以外のなにものでもない。
「なんでそんな珍しい名前なんですかね」
幾久が言うと、高杉が答えた。
「読み方は『じょうせ』じゃけど、漢字はそのままで『とこよ』って読むじゃろ?」
相変わらずの、皆がいう所の「年寄りみたい」な長州弁で高杉が説明してくれる。
「ええ、はい」
常世、は確かに『とこよ』と読む。
「どんな意味なんすか?」
久坂が言う。
「常世は、この世じゃない、神様の世界の事だよ。死後の世界とも言われるけど、極楽浄土の意味もあって、不老不死の世界でもある」
「なんかすごい大仰な名前っすね。でもなんでハル先輩と久坂先輩が、そんないわれ、知ってるんすか?」
本人から聞いたんだろうか、と思っていると久坂が説明する。
「いや、その毛利先生に、『常世』って名前をつけたのが、うちの祖父」
「へ?」
おじいさん?と幾久は目を見張る。
「このあたりの古い家は全部繋がってるからねえ」
吉田が言う。
「特に久坂のじっさまは、この当たりじゃすごい頼りにされてて、慕われた人だったから。おれもすごいお世話になったんだよね」
成る程、それでか、と幾久は納得する。
「モウリーニョはあんな人でも、立派なお殿様なんだもんね、高杉」
「立派かどうかは知らん」
え、お殿様?と幾久は考えて。
毛利。殿様。
「え?まさか毛利先生って、あの毛利?!毛利元就の?!」
「え、いっくん知らなかった?」
「知らなかったっす」
というか、この学校はそんな人ばかりなのでもういい加減、苗字が同じだけなのかその子孫なのか、わからなくなってきた。
今更だが、父がこの学校を薦めた理由が今更判る気がする。
東京では、ドラマのタイミングもあっただろうけど幾久が乃木希典の子孫だからとからまれたが、こっちは逆にあまりにもそういう人が多すぎる。
『うちなんかよりよっぽどメジャーな家の子孫が通ってる』
と父は言っていたけど、本当にこれはあまりにも多い。
「なんすか、長州市、子孫だらけっすか」
自分もその子孫の中なのに、幾久が言うと吉田が笑って言う。
「そりゃそうだろ、だってさ、志士の子孫なんか一体何人いると思ってる?子供三人でも、もう三倍、その子供に五人ずつ子供がいたら更に五倍、それだけでもう五十人近くになんじゃん」
「確かに」
幾久が頷く。
「毛利家ったってかなり長いし、家だってやっぱ格みたいなのがあるみたいだし、あっちこっち繋がってるし。そういうの、特にこの辺じゃ珍しくないし」
実際、ここに居る先輩たちも維新志士の子孫だし、山縣もそうだ。
「本家繋がりと分家の子で、喧嘩したりとかもあったりね、色々よ、色々」
「複雑なんすね」
親戚づきあいなんかろくになかった幾久はそう思って軽く言ったのだが。
「ていうか、重かったりするよね、ホント」
ぼそっと言った久坂に、なんだかすごい言葉の重みを感じてしまって、そして皆、この会話をやめてしまった。
「えと、そういや忘れてたけど、いっくん、なんでモウリーニョと話してたん?」
流れを変えようと吉田が話をふるが、結局は身内の話になってしまう。
毛利が幾久を呼び止めたのは、久坂の兄のことがあるからだ。
言っていいのだろうか、と思ったけれど今更隠すのもおかしい気がして、あくまで何もないように幾久が言う。
「久坂先輩の、亡くなったお兄さんの話っした。なんかオレと境遇が似てるとか、先生と親友だったとか、メガネ君とか」
久坂の表情が一瞬固まったのが判ったが、幾久は続けた。
「その久坂先輩のお兄さんが凄いい人で、だから境遇が似てる俺をハル先輩と久坂先輩が心配してくれるから、それに甘えんじゃねえぞ、とかそういう話っした」
嘘はついていないし、かなり言葉は選んだけどそういう意味合いの内容だった。
「いっくんは甘えてないよ」
久坂が言う。
「おお」
高杉も言う。
「でも、やっぱ心配なんじゃないんすか?毛利先生からしたら、久坂先輩もハル先輩も、弟みたいなもんなんでしょ?」
宇佐美があんなにも高杉や久坂を気にかけているくらいだから、きっと毛利先生もそうなのだろう。
すると急に、さっきまで強張っていた雰囲気がゆるくなって、高杉が「まぁな」と言う。
「それに、幾久は杉松とは違う。幾久のほうが心配はいらん」
高杉が言うので久坂が「確かに」と頷く。
「ただ、どっか抜けてそうで真面目なのは似とる」
「確かに」
「メガネがクッソださいのも似とる」
「ああ!確かに!いっくん、そのメガネださいよ、どうにかしたほうがいいよ」
「オレだってクッソださいと思ってましたよ!」
なんなんだ、せっかくフォローしたのに最終的には眼鏡の駄目出しとか!
幾久は怒るが、久坂と高杉と吉田が顔を見合わせる。
「あれ。やっぱ瑞祥(ずいしょう)もそう思ってた?」
「思ってた。あれはないよねって」
「お洒落『逆』番長の瑞祥が言うとかよっぽどだよ、ね、ハル」
「いかんな。おい、幾久、いまから眼鏡買いに行くか」
「へ?」
なんでまた眼鏡の話になってるんだ?と思ったが、三人はすっかり乗り気だ。
「ああ、丁度いいね。じゃもう今から眼鏡買いに行こう!」
「いや、でも」
勝手に買っていいのかな、と思ったけれど確かにあのうるさい母親はいないのだ。
眼鏡はずっと、自分の欲しいものが買えなかった。
買おうにもそんな高価なものは買えないし。
「えと……父にメール、してみます」
立ち止まり、幾久は父親にメールを打った。どうせ仕事中だろうし、返信なんか戻ってこないと思っていたが。
「あ」
「え?」
「はや」
送ったメールがあまりにも早く戻ってきたので、思わず見直すと、父からの即返信メールだった。
「『予算は二万円まで』……だそうです」
「うっわ太っ腹!」
吉田が驚く。幾久も驚いた。こんな高い値段の眼鏡なんかしたことがない。
すると突然、着信音が鳴った。
幾久の父からだった。
「も、もしもし?」
『幾久か?』
「どうしたの、父さん。本当にいいの?」
幾久の言葉に父が笑う。
『なに言ってんだ、ちゃんとした眼鏡を買わないと勉強もはかどらないだろう?』
「いや、眼鏡がおかしいとか壊れたとかじゃなくってさ」
カッコイイ眼鏡が欲しいだけなんだけど、と申し訳なくそう言うと、父が電話の向こうで笑っていた。
『いいじゃないか、父さんだってかっこいい眼鏡好きだぞ!』
そういう問題じゃないのに、と幾久が思っていると、父が真面目な声で言う。
『眼鏡はちゃんといい眼鏡屋で買いなさい。予算は二万と言ったけれど、もうちょっと超えてもいい。安い眼鏡はフレームが悪かったり、レンズがきつかったりで体が悪くなる。報国の商店街の近くに古い眼鏡屋さんがあるはずなんだが……』
いまはどうか、と言う父に、吉田が言う。
「ごめんいっくん、聞こえたんで言うけど、その商店街の眼鏡屋が、いまからおれらがいくところ」
『こっちも聞こえたので、息子をよろしくと吉田君に伝えてくれ』
うわ、丸聞こえな上に、一回話しただけの吉田の声が電話越しでよく判ったな、と幾久は父に感心する。
幾久の父のファン(?)らしい吉田は「おまかせください!」とか言っている。
「でも支払いとか」
『眼鏡屋さんにはこちらから連絡しておくから、好きなものを買いなさい』
「―――――ウン、ありがとう、父さん!」
『どういたしまして』
通話ボタンを切り、全員が顔を見合わせた。
商店街は学校の近くにあるが、もう歩いて過ぎてしまっている。
「戻るか」
「そだね」
二年生達は早速、眼鏡屋に向かって歩いていく。
テンションが上がっているのか、高杉は早歩きで楽しそうで、その後を久坂がついていく。
と、幾久の傍にいた吉田がさっと止まり、高杉と久坂と距離を置く。
先に進む二人は、吉田と幾久が距離をとったことに気付いていない。
「あのさ、いっくん」
「なんすか?」
二人に聞こえないように、吉田が小さく尋ねた。
「久坂のにーちゃんのこと、気になる?」
「オレは気にしてないっすよ」
似てるといわれても、写真をみたわけでもないし、それにかぶっているのは、東京、眼鏡、受験失敗、とかそのあたりしかない気がするのだけど。
「どっちかっていうと、他の人のほうが気にしてる気がする」
幾久はちっとも気にしていないのに、なぜか周りの人がやたら気にする。
多分、気にしているのは高杉と久坂の二人なのだろう。
あの二人にとって、『久坂杉松』というのはそれほど大きな存在だったのだろう。
「そうだよね、いっくんにとっては知らない人なんだもんね」
「そうっす。でもなんか、すごいいい人だったらしいのは判ります」
「判る?」
吉田の問いに、幾久が頷く。
「宇佐美先輩、神社の……住吉神社の木の前で、じゃあな、杉松、って挨拶してましたよ。あと、双子の神主さんも誉めてたし。あの毛利先生だって、自分は教師になるつもりなかった、杉松の代わりだって言ってたし」
どういう人なのかは判らないけれど、そこまで人に影響を与えて、しかもいい人だったらしいから、よほどなのだろう。
「久坂先輩のお祖父さんも、地域で有名な人なんでしょ?じゃあ、そういう家なのかなとか」
ただ、久坂の性格は一癖も二癖もあるようだけど。
「そうだな。おれも知ってるけど、本当にいい人だったんだよ。穏やかで、優しくて。分け隔てないっていうのかな」
「性格オレと似てないっす」
幾久が言うと、吉田が笑う。
「まあねえ。でもなんとなく、似てるところもあるけどねえ」
久坂とも高杉とも、幼馴染だったという吉田もきっと久坂の兄については色々知っているのだろう。
「なんか聞きたい?」
吉田の言葉に幾久は首を横に振る。
「別にいいっす」
聞いても多分、理解なんかできないだろう。
「オレ、まだこの学校に三年通うって決めたわけじゃないし、ふわふわしてるし。正直、寮も学校もなんか楽しいな、とは思うけど」
学校は行くのが当たり前の所で、向かうのが面倒くさい場所だった。
どうせ勉強なら塾でできるし、学校で見る顔が同じ塾や習い事で見るのだから、別に行っても行かなくても、幾久には同じだった。
でも今は、まるで初めて小学校に通う子供のように、毎日が楽しい。
友達に会って、どうでもいいおしゃべりをして、寮のことを話して。
「そういうの、すっげえ楽しいけど、今だけかもしんないし」
親から離れ、特に幾久の所属する『御門寮』は生徒たちの自主管理項目が殆どで自由そのものだ。
寮の先輩達にも慣れてきて、生活のパターンも出来てきた。だから、浮かれているだけなのかもしれない。
この生活にも慣れてしまうと、やっぱりつまらない、面倒な日常になるのかもしれない。
それなら、早く東京に戻ったほうがいい。
でも、幾久が東京に戻るのは、『いい大学』に入るためだ。
そして幾久は、『いい大学』に入りたかったのは自分ではなく、母が幾久をいい大学に入れたかっただけ、と気付いてから、かなり頭が混乱していた。
『どうしたいのか、自分は本当はどうしたいのか、しっかりとこの三ヶ月の間に考えなさい』
入学式の時に、幾久はそう父に言われた。
勢いで逃げるように報国院に来たものの、やっぱりここは田舎だと怒った幾久は、ろくになにも知らないのに、すぐに東京に戻りたいと父に訴えた。
父は幾久に『自分の母校である、報国院に息子を入れるのが夢だった』と幾久に告げ、三ヶ月だけ報国院に通うのが、東京の学校に編入する条件だと告げた。
―――――父は本当は、全部判っていたのだろうか。
幾久が母の影響で、無意識にも『東京のいい大学に入らないといけない』と思いこんでいたことも、幾久がそれに気付いていないことも。
『お前の人生だっていう事を忘れるなよ、幾久』
父は多分、本当に気付いて知っていたのだろう。
「すっごい楽しいなら、それでいいんじゃないの?」
吉田が言う。
「え?」
「だっていっくん、今楽しいんでしょ?」
「ええ、まあ。でも今だけかもしんないし」
幾久の言葉に吉田が返した。
「今だけじゃないかもしんないし」
幾久ははっと顔を上げる。
吉田がにこにこ笑って言う。
「ひょっとしたら、もっと楽しくなるかもしんないじゃん?報国院、けっこう無茶苦茶だよ。よく言われるけど、水が合ったらもうすごいここはいいんだって。絶対に息子入れたい!って思って、実際そういう人多いから、三代四代当たり前とかだし。でもあわない奴はすぐにやめちゃうし」
そうだろうな、特にクラスのランクが下がれば下がるほど、授業料が跳ね上がるんだから。
もし親だったら、ランクは低いしお金は高いし、嫌になってしまうだろう。
「だからさ、いっくんが『楽しい』って言ってくれたの、おれ、すごい嬉しい」
吉田がしみじみ、そう言う。
確かに幾久は入学したての時は、こんな田舎嫌だ、とか、こんな変な先輩達嫌だ、と思っていたけれど、なんだかんだ、世話はやいてくれるし、ずれている場合も多いけど気も使ってくれる。
かなり自由な御門寮も居心地がよくなってきた。
……もうちょっと、ここに居てもいいかな
三ヶ月とか言わずに、一年とか、三年とか。

まだ父との約束の三ヶ月は過ぎていない。
ゆっくり決めればいいと思いながら、早く決めてしまいたい、と気が焦ってしまうのは、どうしてだろう。


将来の事があるのに。
高校は、将来を左右してしまうのに。


だけどその、幾久の頭の中に響く声は、幾久のものではなく、母の声だ。
父の言葉をゆっくりと思い出し、反芻し、そして最後は自分で決めればいい。ヒステリックに怒鳴る母は、ここにはいないのだから。
「うん、ゆっくり考えます!楽しいし!」
「そっか」
吉田が言う。報国院が好きだ、と言っていたので本当に嬉しそうだ。

四人で報国院のある方向へ戻りながら、目指す先は商店街だ。父の言う眼鏡屋に、幾久の求めるようなかっこいい眼鏡はあるだろうか。
例えば母がヒステリーを起こして、父が『お、それかっこいいじゃないか、いい眼鏡買ったな』と言うような。

入学式の時に入った制服を仕立てた店のように、アンティークな雰囲気のある眼鏡屋のドアを押した。


「どんな眼鏡をお探しですか」

店員が幾久たちにそう呼びかけると、高杉が答えた。
「ださくなくて格好ええ奴」
「わかりづらっ」
吉田が言い、久坂は「これなんかどうかな」とビートルズの人がかけていたような丸い眼鏡を薦めてきた。
「先輩ら、使えないっす」

さて、どの眼鏡にしようかな。
自分の欲しい眼鏡を自分だけで選ぶのは初めてだ。

「ゆっくり選びます。オレのだし」

きちんと見えて、格好良くて、軽くて、クリアで、まっすぐ前を見れる奴。そうしたらいろんなことが、ちゃんと見れるようになるのかもしれない。

父は幾久に、何か見せたいものがあるのかもしれない。父の薦めで買った眼鏡で、何をみつければいいのかな。

予算は二万円だけど、世界がきちんと見えるなら、高いお金じゃないのかな。払うのは自分じゃないんだけど。

浮かれた幾久はそんな事を考えて、眼鏡屋の中をじっくり探し始めた。



右往左往・終わり