一陽来復
(4)花の宿
恭王寮を出て、幾久と高杉は御門寮とは正反対のある神社へ向かっていた。
『ちょっと寄っていいか?』と高杉に言われ、頷いて従った。神社は報国院の敷地内にある神社でなく、道一本外れた場所にある神社だった。
幾久が入試の時に乗り越えた近くにあるが、入試のときは慌てていて全く気付かなかった。
「ここ、」
神社の名前を見て、幾久が驚く。
「乃木さんの神社じゃ」
乃木神社、と書いてあり祭神は乃木希典とある。
手水で手を洗い、神社に参った。きちんと参拝の仕方が書いてあったのでその通りにすると、高杉は慣れた様子でその通りにやっていた。
「ちょっと休んでいかんか」
言われて頷く。境内の奥には井戸や銅像、そして資料館があった。それと、満開の桜だ。
「すっげ」
この前花見をした寺の中もすごかったが、この敷地内にあるのも凄い。枝垂れ桜や八重桜なので、花が沢山重なっていて見事だ。
資料館の入り口は横に長い階段があり、そこに高杉と幾久は腰を降ろした。
「―――――さっきはすまんかったの」
「いえ」
さっき、とは幾久が中学の時に暴力を振るったという事を高杉が皆にばらした事だ。
事情を知っていて、それを勝手にばらした高杉には確かに一瞬腹が立ったが、その後のほうが凄くて、そんなものはかすんでしまった。
『人殺し』
それは幾久が、クラスメイトに揶揄された言葉のひとつだった。
乃木希典をモデルにした小説のドラマを鵜呑みにしたクラスメイトが、幾久が乃木希典の子孫だと知ってそう揶揄してきた。
我慢をしたけれど、繰り返し言われて結局そいつを殴って停学になった、と幾久が説明したとき、恭王寮の応接室は一瞬、時間が止まったかのようにシーンとなったあと、怒涛のような言葉の応酬があった。
「まさか、皆があんなに怒るとは思ってなかったっす」
怒った、というのは幾久に対してではない。そのクラスメイトに対して、だ。
幼い頃から乃木希典の勲功を聞かされて育った地元民にとってその屈辱は幾久の想像以上だったらしい。
おまけに幾久は知らなかったが、児玉も弥太郎も、維新志士の子孫だった。
祖先を誇りに思っているらしく、その後の怒りはすさまじく、桂ですら目が笑っていなかったほどだ。
結局関係ないのになぜか幾久が殴った奴の名前まで教える羽目になった。
『なにが人殺しだ!その人殺しってやつに任せたくねえなら自分がやればよかったのに!だから馬鹿は嫌いなんだよ!』
意外な事に、一番怒っていたのが幾久の事を嫌いなはずの児玉だった。あまりに怒るので、寮にいた他の連中がなにがあったんだと応接間に覗きにきた。
弥太郎に関しては、はらはらと涙を流したくらいで、逆に幾久のほうがびっくりした。
『なんでそんなひどいこと言えるんだろうね、ひどいよね、戦争で戦った人への冒涜だよ』
どうしてそこまで思い入れられるのか、不思議だと幾久は思っていた。
目の前の神社だって、幾久の先祖だと言われてもいまいちぴんと来ない。存在を知りもしなかったくらいなのだから。
「そりゃ怒るだろ。乃木さん馬鹿にされりゃな。ここでは当たり前の事じゃ」
「東京では当たり前じゃなかったっすよ」
クラスメイトはそんな揶揄をニヤニヤしながら眺めていただけだ。ドラマを見て、そう思っていたのかもしれないし、加担しない虐めを傍観者として楽しんでいたのかもしれない。
「なんでもよかったんじゃ、そいつらは。なんでもいいから、違うものを持ってる奴を叩きたかっただけじゃ。たまたま、お前がそれにあたった、それだけの事じゃ」
「そう、思います」
今となっては、乃木さんの事なんかただのいちゃもんだったんだろうと判る。
「だから、我慢したほうがよかったのかな、とちょっと思ったり」
「なんでじゃ。お前は我慢しちゃいけんじゃろう」
「へ?」
「お前は、乃木さんの子孫じゃろう。お前が怒らんで、誰が怒るんじゃ」
でも、と幾久は思う。自分はついこの前までそんな事を知ってはいても考えもしなかった。
ドラマで乃木希典がどんなひどい扱いを受けても腹なんかたたなかったし、ふうんでおしまいだった。
それなのに自分が揶揄されたら怒るとか、自分勝手なような気がする。
「お前はなんで、乃木さんを馬鹿にしたやつを殴ったんじゃ?誰かをすぐ殴るような性格じゃないじゃろう」
「……」
それは幾久にも判らなかった。もともと暴力なんか振るったことがないのに、あのクラスメイトを殴ってからというもの、自分は手が早くなった気がする。
御門寮に来てすぐに山縣と喧嘩して手を上げたし、今日だって殴りかかってくる相手に躊躇なく飛びついた。今までの幾久ならただ殴られるだけだったろう。
「わかんないっす。無性にその時は、腹が立って」
高杉は静かに、幾久に言った。
「お前が、そいつを殴ったのは理由があるんじゃ」
「そうなんですか」
「ああ。凄く判りやすい、当たり前な理由じゃ」
幾久にはその理由が判らない。高杉を見上げていると、彼は言った。
「お前がそいつを殴ったのは、単純にお前が馬鹿だからじゃ」
馬鹿と言われて幾久はむっとする。
「なんで、馬鹿なんすか」
「馬鹿だから、自分の感情もわからん。まとめきらん。伝えきらん。だからそのまま、苛々して相手に当たる」
ぐっと幾久は唇を噛み締める。確かにその通りだからだ。
「お前、クラスメイトを殴ったときの気持ちを説明できるか?できんじゃろう」
「それは、」
「ただむかつくとか、イラついた、なら小学生でも言えるぞ。なにがどうして、どういう理由で、なんで腹が立つか考えたか?」
「そんなん、ただの感情だろ」
ぼそっと言う幾久に、高杉は首を横に振る。
「どんな感情でも絶対に理由っていうものはあるんじゃ。それをきちんと判らんままにしとくと、同じ様な事で何回も腹を立てるぞ。お前は腹を立てるたびに退学くらって学校変わるんか?」
高杉のいう事はもっともすぎて反論の余地がない。
「あんたに、関係ないでしょう!」
そう否定するのがやっとだ。
だが、高杉は揺るがない。
「関係あろうがなかろうが、考えることくらいええじゃろう。お前は悪くないんじゃろう?」
確かに自分は悪くない、と言える。でもなぜそういえるのかは判らない。
「そりゃ、誰かを殴る事はよくないし、絶対にしちゃいけんことじゃ。けど、世の中にはどうしようもないやつがおる。話し合いなんか意味のない、ただの馬鹿やクズがおるんじゃ。けど、だからっていきなり殴っていいわけじゃない。そうじゃろう?」
幾久は頷くしかない。確かに自分は相手を一方的に殴った。それは悪い事だ。だけど後悔はあるか、といえば相手を殴った結果、面倒なことになったという後悔はあっても相手に悪いという気持ちは全くない。
「なあ幾久。なんでお前はそいつを殴った?」
静かな高杉の口調は、いつもと違ってちゃんと答えないといけない気分にさせる。
幾久はじっと考える。手を組んで、考えたくないことを考えた。
むかついた、腹がたった。でも今までそんな事いくらでもあった。
どうしてあの時自分は手が出たのだろう。
「……人殺し、って言われて、かっとなった。多分」
「ほう」
「本当の事なのに」
そう言うと、胸がきしんだ。
そう、事実そうだ。
乃木希典は軍人だ。
多かれ少なかれ、人の生死に関わっている。
多分腹がたったのは本当のことだからだ。
真実を言われてかっとなった。
「人殺しとは、穏やかじゃねえが、まぁ、しょうがないことじゃの」
「でも」
「言っとくが、そんな連中、うちにはごろごろおるぞ?それに幾久、お前だってその言葉が理不尽だって判っちょろうが」
幾久は頷く。そう、なのだ。事実であっても釈然としない。実際、幾久自身が人殺しをした訳じゃない。
「お前がなんで、釈然とせんか、教えちゃろうか」
高杉の言葉に幾久は頷く。この不思議な感情の理由が知りたかった。
「今の立場から、昔を判断するから、おかしなことになるんじゃ」
「?」
幾久は高杉の言った意味が理解できなかった。判っている、という風に高杉が、ひとつひとつゆっくりと言った。
「乃木さんが生きちょったのは明治時代じゃ。明治の頃の常識と、今の常識も状況も違う。それは判るな?」
幾久は頷く。いくらなんでも、そのくらいは判る。
「昔の事は昔の人しか判らん。そのころはそうじゃった、としか言えん。戦争も同じじゃ。そん時の状況なんかそん時しか判らん。その判らんものに対して、『考えれば判る』とか『無能だ』とか言うのは馬鹿げちょる。誰だってそんなん、判ったらせん。できたらせん。判らんかったから、できんけえするんじゃ」
「でも、じゃあ何でいちゃもんつけてくるんすか」
昔の人しか判らないのに。
そう幾久が言うと、高杉が苦笑した。
「決まっちょる。そんなん、理由なんかどねえでもええからじゃ」
目に付いたからだ、と高杉は言う。
「ちゃんと聞きたがる奴は、殆ど聞かないでもええくらいに調べてくるし調べちょる。でもちょっと聞きかじったり、いちゃもんをつけてきたい奴は適当な理由を探してくる。想像じゃけど、お前の殴ったクラスメイトは、お前にいちゃもんをつけたかっただけじゃ。乃木さんなんか関係ない。もっと目立つ奴がおったら、お前なんかよりそっちをからかったんじゃないのか」
高杉に言われて幾久はそうかも、と思う。
元々幾久が殴ったクラスメイトと付き合いはそんなになかった。テレビでドラマがあって、担任がばらしてから急にからむようになった。
「本当に乃木さん云々が原因なら、話し様もある。けど、そいつはお前にからむ理由に乃木さんを使っただけじゃ。だからお前は混乱した。乃木さんが理由だって言う、そいつの言い分を信じたからじゃ」
高杉の言葉は一々最もで、幾久は頷く。
確かに、いきなりなぜ乃木希典の事を言ってくるのか判らなかった。
だけどもし、理由なんかなんでもいい、とにかく叩く相手を探しているのだとしたら。
「相手が何を言っているか、の言葉尻を取るより、相手が何を言おうとしちょるんか、考えんといけん。でないとずっと、こんな揉め事から逃げられん」
「……」
難しい、と幾久は思った。会話のひとつひとつ、そんな風に考えないといけないのか。
「素直に言葉を受け取るのはええことじゃ。けど、素直に全部鵜呑みにして判断するのは、馬鹿のすることじゃ。言葉の裏を探れ、とは言わんが、本当の意味を考えるのは必要な事じゃぞ」
特に報国院、御門では、と高杉は言う。
「わしはその時の事を知らんから、想像でしかないけど、とにかくドラマに出た、テレビに扱われた、そんなのが気に入らん奴だったんじゃないのか。お前が興味なければ余計にむかついたじゃろう」
「……バッカみてぇ」
でも確かに、自己顕示欲は強い奴だったな、と幾久は思い返す。
「でもそのバッカみてぇな奴が多いじゃろう」
高杉の言葉には含みがある。自分なんかよりよっぽどメジャーな人が祖先なんだから、幾久とは場数が違うのかもしれない。
「お前は多分、無意識にその理不尽に気付いてたから、腹が立ったんじゃろう。けど頭が悪いからそれを相手に説明できなかった。で、殴った」
「すみませんね」
むっとして言い返すが高杉は気にしない。
「馬鹿はな、何を言っても無駄じゃ。けど、馬鹿かどうかわからん奴には説明がいるんじゃ。それは馬鹿を説得する為に、じゃない。馬鹿じゃない人を納得させる為に必要なんじゃ。けど、それは技術がいる。技術は磨かんとつかん」
「判りにくい」
高杉の言おうとしていることは判るが、いざ自分の中で咀嚼しようとするとうまく飲み込めない。
「……今日おった連中は馬鹿じゃねえから、ちゃんと説明しときゃ助けてくれる、って言えば判るか?」
今日、というのは恭王寮に居た桂やトシの事だろう。
「お前はなんも言わんでええ、と思っちょるかもしれんが、毎日心配してくれちょる相手に話くらいしてもええじゃろう」
「でも、そんな話聞きたくないかもしれないし」
「それはお前が判断せんでもええ。聞きたくない話なら聞きながしてくれるんじゃないのか?」
「……」
確かに、と幾久は思う。自分だって、誰かのどうでもいい話は多分、聞き流すだろう。
「人ってな、案外、自意識過剰なんじゃ。こんなの言ってどう思われるか、とか考える。でもそんなの誰も気にしちょらん。一世一代の告白でも、聞くほうがどうでもいいと思っちょったら、ただの雑談じゃ」
ごもっともすぎてぐうの音も出ない。
「そもそも、幾久がだれか殴って停学とか聞いても誰もなんとも思わんぞ。トシなんかそんなんで停学だったら中学じゃ毎日停学くらっちょる」
「そんなに?!よく退学にならなかったっすね」
驚く幾久に、高杉が言う。
「公立じゃからの。退学なんかまずできん」
そっか、と幾久は納得する。自分が通ったのが私立だから自然そう思ったが、公立はよっぽどの事がないと退学にならないのだ。
「わしだって、その程度で退学だったら何回も退学じゃ」
「え?ハル先輩も実はヤンチャだったんすか?」
「……一瞬だけな」
一瞬ってどのくらいだろうと思ったが、高杉が言う。
「一年、あったかないか、くらいじゃ。別にバイク乗ったり酒飲んだりはしてないがの。あと煙草も喘息で断念した」
「やろうとしたんすか」
「やろうとしたけど、むなしくてやめた」
お前はすんなよ、と言われてしないっすよ、と答えた。
「本当に興味があってするなら、見ない振りしてやるけど自分を痛める行為ならやめちょけ。わざわざそんなんせんでも、他のことでなんぼでも、嫌でも痛い目は見る」
高杉の言葉が妙に重かった。
なぜかは判らなかったけれど。
二人きりで黙っていると、風がざあっと音を立てた。
風の音に顔を上げると、それは木々が擦れる音だった。強い風が吹くと桜が散る。綺麗だなあ、と思う。
東京に住んでいる頃、桜はわざわざ見に行くもので、こんな風に風景に溶け込んでいるものではなかった。
この前行った寺も、この神社も、通学路にある桜も、父もきっと見たのだろう。
(もし、ここにずっと通ったら、あと二回は桜が見れるのか)
そう思って、たったの二回か、とも思った。こんなに綺麗な場所なのに、たった三ヶ月でお別れなんてつまらないなあ。
そしてふと思ったのが、なぜこんなにもここから転校したいのか、という事だ。
(いや、大学はいい所に行くべきだし)
それは判っている。だけど、自分にはそんなに入りたい大学なんかあっただろうか。
一瞬、目の前が暗くなる。
(そ……だよな。オレ、なんでこんな、転校に拘ってんの?大学だって、別に、そんな)
『幾久は、いい大学に入れるべきなんです!』
フラッシュバックしたのは、母親の声だった。
ヒステリックに父に叫んでいた。
そうだ、別に幾久がいい大学を望んでいたわけじゃない。母だ。
小学生の頃からお受験に必死で、大学は絶対に東大なのよね、とか言っていた。望みが高いのはいいけど、さすがに東大は冗談だろうと半分は思っていたのに、幾久が報国院に進学を決めたとき、母は泣きながら喚いていた。その姿に幾久は引いた。
『しっかりとこの三ヶ月の間に考えなさい』
父が幾久の入学式に言った言葉が思い出された。
『どうしたいのか、自分は本当はどういう気持ちなのか―――――』
初めて気付いて、幾久は手が震えた。
あんなにも母親が嫌で逃げたかったのに、幾久が選んでいたのは、母親の望む人生だったんじゃないのか。
父はそれに気付いていて、幾久を報国院へ逃がしたのではないのか。
「幾久?」
「……すみません」
唐突に気分が悪くなり、幾久は口をつぐんだ。
「水、持ってきてやる。ちょっと待ってろ」
高杉が慌てて井戸へ近づく。この神社の井戸は整備されていて、誰でも綺麗な水が持って帰れるようになっている。
水道の蛇口を捻り、持っていたボトルに水を入れて高杉が渡してくれる。礼を言って受け取り水を飲むと、少し落ちついた。
「大丈夫か」
頷くが、顔色が悪いのか高杉ははらはらしている。
「すまん、わしがいろいろ言ったせいか」
「イエ、多分、関係ないっす……」
どっと一気に疲れた気がして、幾久は肩を落す。
本当に高杉は関係ない。ただ、嫌いな母親に支配されていたような事に気が付いて、気分が悪くなっただけだ。そう説明したいのに、吐きそうになって言えない。高杉はジャージを脱いで丸めると、枕をつくり幾久を横に寝せた。
「ちょっと待っちょけ!」
言うが早いか、境内を走っていく。どこに行くんだろうと思っていると、暫くしてすぐに戻って来た。
一緒に居るのは、幾久が入試の時に試験官をやっていた教師だ。相変わらず歩き煙草の上に、あのときにはなかった無精ひげまで生やしている。
「幾久、車回してもらったからな。歩けるか?」
頷こうとしたら、突然教師にお姫様抱っこされた。
ぷっと煙草を吐き捨て、それを高杉が拾い、教師のポケットから携帯灰皿を出してその中に入れた。
「大人しくしとけ。寮まで車で送ってやる」
抱っこされるほどではなかったが、気分が悪いのは事実なので素直に抱かれて、車の中に押し込められた。
車はスポーツタイプのツーシーターだったので、運転する教師と幾久の二人しか乗れず、高杉は歩いて帰るとの事だった。
「スミマセン……」
「まーしょうがねーわな、コハルの頼みとあっちゃーなー。普段はこんなんしねーからな、甘えんなよ」
「マジ、スンマセン……次から気ィつけます……」
ぐったりとなっている幾久に、教師は苦笑する。
「ほんと冗談のきかん奴だな。真面目すぎるわ」
冗談だ、気にするな、と教師は言う。
「送るくらい、ちゃっちゃーだし、コハルが俺を頼るのも久々だしなー」
「コハル、って誰っすか」
少し気分がよくなり、そう訪ねると教師が答えた。
「高杉の事だよ。高杉呼春、ってコハル、とも読めるだろ。あいつ、子供の頃はコハルちゃんって呼ばれてたんだよ。本人すっげえ嫌がるけどな」
確かに『
呼ぶ』は『
呼』とも読む。
しかしコハルちゃんなんて行ったらすぐに蹴っ飛ばされそうだ。
「じゃ、先生、子供の頃からハル先輩の事知ってんですか」
「知ってるもなにも、俺が先生やってんのあいつのせいだよ。あいつがいなかったらこんなクッソ面倒な仕事なんか絶対にしてねーわ。ガキはうるせーし面倒くせーし」
すごい言いっぷりだな、と逆に感心する。
「先生って、千鳥でしたっけ」
「おーよ。千鳥の担任で報国の寮ももっとるわ」
それでこんなに乱暴なのかな、と思っていると教師が言った。
「お前、実際御門どうよ。久坂から苛められてないか?」
いきなり久坂の事を言われてびっくりしたが、高杉を幼い頃から知っているなら当然久坂も知っているのだろう。
「あー、えーと、苛められては、ないっす、多分」
思い切りからかわれはしたが。
「じゃ、苛められずになにされた?」
「なんかされたのは前提なんすね」
「お前調子よくなったな。そうそう、久坂、お前になんかしたんだろ?」
しつこい教師に、うーん、と幾久は答える。
「からかわれは、したっす」
「どんな」
「どんなって……」
話してもいいもんだろうか、と考えていると、教師が『言わないとわかってんだろうな』みたいな顔で覗き込んでくる。
「先生、コエーっす」
「おう、脅してんだもんな。ほらとっとと言え」
御門寮の前に到着したのに、路肩に車を止めて教師が幾久に迫ってくる。
「言えって、たいしたことないっすよ。ちょっとオレが勘違いして、それをネタに久坂先輩がからかったくらいで」
「だから、なにをどう勘違いしたんだよ」
しつこいので幾久は、以前あった事を説明した。
夜に寝ている時に久坂が高杉にキスしているように見えて、それをホモだと勘違いした幾久を久坂がからかって後から高杉にばれて二人が喧嘩になった事。
実はキスしていたわけではなく、高杉が『眠って』いるかどうか心配になった久坂が夜中に心配で目を覚まし、呼吸を確認しているだけだということ。
それを説明すると、教師はむっつりと黙り込んだ。
「……先生?」
「やっぱそう簡単にいかねーよなぁ……」
一人で勝手に納得しているっぽい様子に、どうしたのかと幾久は思う。
「あの、先生?」
「いや、うん判った。あ、俺がこの事知ってるってコハルにも久坂にも、とにかく誰にも言うなよ。言、う、な、よ?」
「……わかりました」
なんで一々すごむんだろうこの先生、と思ったが、幾久は素直に頷く。
「よーし。じゃ、降りろ」
「ハイ。ありがとうございました」
気分が悪いのは大分よくなっていたが、それでもちょっと熱っぽくなっている気がする。送ってくれて助かった。
「礼はコハルに言えよ。ほんっとあいつはお前にはお節介なんだからな」
「あの」
「なんだよ」
幾久はずっと、疑問に思っていた事を教師に尋ねた。
「あの、ハル先輩がオレに甘いってガタ先輩とかが言うんです。それって、マジですか?」
教師は頷く。
「うん、っていうかお前にはお節介焼きすぎだな。ま、そうなるだろうと思ってたけど、予想以上だった」
「ハル先輩って、誰にでもあんなんですか?」
幾久の言葉に教師がぶっと噴出す。
「ないない、アイツはよっぽどの身内にはあめーけど、そんなん一握りしかいねーよ。お前がそのレベルで世話やかれるほうがおかしーんだって。ま、山縣のいう事は正しいわな」
「……なんで、なんすかね」
「なに。俺がそれ知ってるっての?」
「ひょっとしたら」
そう言うと、教師はニヤニヤしながら幾久を見た。
「へー、真面目馬鹿かと思ったけど、馬鹿ではねーのな」
一々、失礼な人だと思うが教師なので黙っている。
それにそれより、どうして高杉がこんなにも幾久に構うのかが知りたかった。
「そんなん、理由はたったひとつだよ。オメーが『東京から来た眼鏡君』だからだ。あ、これも言うなよ。言ったら退学にさせっかんな」
よく判らない理由を尋ねる前に、教師は窓を閉めて、さっさと車を出してしまった。一人残された幾久は、意味不明な言葉に頭を悩ませる事になった。
「東京から来た眼鏡君……?一体、なんの事だ?」
訳が判らないが、なにか考えると頭がずきずきと痛み、気分が悪いまま、御門寮へ戻る事にした。
真っ青な顔の幾久を心配して、吉田と久坂が布団を敷いて幾久を寝かした所で高杉が帰ってきた。
夕方になれば、高杉が昔から通っている医者が往診に来てくれるという。
「医者なんか、よかったのに」
布団の中で幾久は言うが、吉田が首を振った。
「いっくんの為だけじゃないよ。もし変な病気だったら寮の全員が食らっちゃうだろ。だからちゃんと対策なの。大人しく診察されときな」
そっか、そういう気遣いもいるんだ、と幾久は納得した。共同生活って大変なんだなあ。
もし受験の日とか、そんな時に自分が持って帰ったインフルとかで先輩が受験に失敗したら、と考えるとぞっとする。
そういう事を考えないと、共同生活はできないのだろう。
(そうか。ちゃんと、そういうの、考えるのって大事だよな)
山縣の事を嫌いだといいながら家族だと言った高杉の言葉の意味と重みが判る。
共同生活っていうのは自分だけがなにかを強いられるわけじゃなく、他人も自分のせいで削られるんだ。
「気をつけまふ……」
あったかい布団にぬくぬくと包まって、心配する先輩達の顔を見ながら言うと、なんだかとても幸せな気分だった。吐きそうな気持ちは治まった代わりに、頭痛はとても酷かったけれど。
土曜日は本当は休みなのに、心配した吉田が寮母の麗子さんを呼んだ。あらまあ大変、と麗子さんが夕食を作ってくれることになった。夕食は食べやすいお粥にしましょうね、と気を使ってくれて、ガタ先輩はとっときのジュースをよこしてくれた。
医者が来て、診察をした後、ぐうぐう眠る幾久の様子を見て暫く考え込んだ後、その医者が言った。
「多分、ストレスじゃないのか。免疫が弱っとるんじゃろう。東京から来たんなら環境が違うから余計に身体がびっくりしとるじゃろうし。日照時間も違うからの」
「日照時間?時差?」
驚く吉田に、山縣が言う。
「あ、そういや東京って日が落ちるの早いよな。明けるのもはえーし」
そういうこと、と医師が頷く。
「一日じゃどうこうはわからんし、一般的に言う風邪なら食って寝れば一週間で治る。頭痛が酷いなら痛み止めだけ置いちょく。月曜日になっても悪かったらまた呼べ」
ま、大丈夫じゃろうけど、と医師が言う。
「疲れじゃ疲れ。寝れば治る。若いんじゃしの」
「そっか、びっくりしたよ。いっくんずっと元気だったから」
大した事がないと聞いて、二年生は皆ほっとしていたが、山縣が言った。
「どうせ知恵熱だろ。ほっときゃ治るって」
その言葉に全員が噴出した。
具合が悪いのにうるさいなあ、と幾久は思ったが、お粥でおなかは一杯だし、今日は沢山考える事があったので疲れた、と思いながら夢の中へ沈んで行った。
一陽来復・終わり